相棒 村山由佳
相棒 村山由佳

 思い出すだけでいまだに苦しくなる記憶がある。
 トールとの別離だ。
 彼は、わたしを背中に乗せてくれるようになって間もなく、突然、ほんとうに突然、逝ってしまった。外乗に慣れさせるためだからと黒澤さんに強く頼まれ、わたしが乗って、初めて牧場から連れ出した日のことだった。
 それまでふつうに歩いていたのに、トールはいきなりめちゃくちゃにいなないて棹立ちになったかと思うと、後肢でたたらを踏み、どうっと地面に横倒しになった。
 それきり、目をあいたまま、もう動かなかった。
 後になって判明した死因は、脳溢血。馬にもそんなことが起こるなんて思いもよらなかった。
 倒れた馬の下敷きになったわたしの左の骨盤は砕けていた。入院中、黒澤さんは何度もお見舞いを持って通って来てくれたようだけれど、そのつど、両親が有無を言わさず追い返した。娘は歩けなくなるかもしれない。あなたに直接の責任はないのは理解できるし、何を要求するつもりもないけれども、二度と娘を馬に乗せるつもりはないのでもう顔を見せないで欲しい。そんなふうに言ったらしい。
 怪我そのものよりも、リハビリのほうがむしろ辛かった。自分もトールもあんまりかわいそうで、どれだけ泣いたかしれない。
 車椅子での生活を経て、ようやく杖をつけば歩けるようになってから、思いきって黒澤さんに会いに行ったことがある。ひたすら謝られるばかりで、どちらも苦しいだけだとわかった。
 やがてわたしは、仕事を通じて知り合った人とつきあうようになり、彼との結婚をきっかけに東京へ移り住んだ。黒澤さんには、いつしか年賀状さえ送らなくなっていた。忘れたかったからではない。彼をこれ以上苦しめることだけはしたくなかったからだ。
 そうして、あれから二十数年が過ぎた。
 夫はそれなりに昇進し、娘は大学へ進み、長く患っていた夫の母親はこの夏、穏やかにこの世を去った。一人旅をしたい、とわたしが言いだしたとき、家族が快く協力してくれた背景にはそういった事情もある。
 行き先が北海道と聞いて、きっと二人とも、目的は里帰りだと思ったことだろう。もちろんせっかく来たのだから帰りには寄るつもりでいるけれど、ほんとうの目的は、実家ではなかった。
 自分の中で、何かひとつ大きな区切りをつけたかった。ピリオドにはまだ早くても、カンマくらいは打っておきたいと思ったとき、ふっと頭に浮かんだのは、今はもういないトールと、そして黒澤さんの顔だった。
 ネットというのはありがたい。ちょっと検索しただけで、彼が今でもあのときと同じ場所で馬たちを育て、乗馬を教えたり、観光客を相手にトレッキングを行ったりしていることが手に取るようにわかった。
 牧場のスタッフを紹介するページには、彼と同じ苗字を持ち、同じ顔で笑う青年が写っていた。歳は、たぶん、うちの娘とほとんど変わらないだろう。
 あの不器用な黒澤さんが、不器用なりに幸せな家庭を築いていたのだと思ってみても、寂しさはなかった。わたしは、ただただ深い安堵を覚えていた。

 駐車場に車を乗り入れ、エンジンを切る。
 すぐ正面に建つクラブハウスは、ほぼ記憶にあるままだ。前の経営者から黒澤さんが引き継いだあとも、古くなったところをそのつど手入れしながら大切に使ってきたのだろう。新しい建物にはない落ち着いた佇まいに迎えられ、身体が急に長旅の疲れを思いだす。
 何の予告もなく来てしまった以上、再会を果たせるかどうかはわからないし、会えたとしても彼がわたしをどういう顔で迎えてくれるかはわからない。いずれにせよ、中に入って一旦腰を下ろしてしまったら、しばらくは立ち上がれない気がする。
 先に、馬を眺めてみたかった。
 ドアを開け、車を降りて、すぐそこの牧柵にゆっくり近づいてゆく。なだらかな丘陵を覆いつくす草の海。向こう側の柵など見えないほど広々とした牧草地のあちこちに、何頭もの馬たちが点々と散らばっている。
 柵にもたれかかるわたしを見て、右手のほうから一頭の馬が近づいてきた。赤みがかった体躯に黒っぽいたてがみ。額には〈作〉と呼ばれる白くて太い筋がある。
 なんて穏やかな目をした馬だろう。毛色も、目もとも、少しだけトールに似ている。
 手を伸ばすと、赤い馬は注意深く匂いをかいだ。生温かい息が吹きかけられ、マシュマロのような鼻面がてのひらに押し当てられる。この感触も二十数年ぶりだ。人なつこいのはきっと、黒澤さんが精魂こめて大切に育てたからだ。
 トール。
 ああ、トール。
 会いたい。もうどうしたって会えないぶんだけ、目の前にいるこの馬のことが、泣きたいくらい愛おしい。
 と、ふいに後ろから声をかけられた。
「こんちはー」
 あまりにも懐かしい声にふり返ると、ものの五メートルくらいしか離れていないクラブハウスのポーチから、彼がわたしを見ていた。すぐにわかった。ネットで写真を見ていたからではない。たとえどれだけ会わなくたって、あるいはどれだけ皺が増えて髪が減っていたって、彼のことだけは見忘れるはずがないのだ。
「こんにちは」
 と、挨拶を返す。心臓が暴れ、声がかすれる。
「どちらから……」言いかけた彼が、車のナンバーに目をやって頷く。「ああ、ずいぶん遠くからいらしたんですね。フェリーですか」
「ええ、そうです」
「その前後は、ご自分で運転して?」
 わたしは微笑んだ。
「もちろん」
「いい車だ」
「ありがとうございます」
「ちなみに、馬には乗られるんですか」
 ──馬には、乗られるんですか。
 噴き出してしまいそうなのをこらえる。
「昔は、ずいぶん乗りましたね」
 胸を張って言ってみた。
 そうして、思いきって付け加えた。
「今でも、頑張れば乗れるんじゃないかしら。あなたが育てた馬だったら」
 訝しげにこちらを見つめた彼が、ややあって、はっと目を見開く。半開きの唇がぎこちなく動いて、わたしの名前を形作る。
「……さと、ちゃん?」
「そうですとも」
 お腹の奥から、サイダーの泡のような感情がこみ上げてきて、わたしはとうとう笑い出していた。