相棒 村山由佳
相棒 村山由佳

 新冠でガソリンスタンドに寄った。
 まさかここまで走ってくれるとは思わなかった。このクラスのクロスオーバーワゴンとしては、燃費は充分以上にいい。ほとんど高速道路を走り、仙台から海を渡る間は甲板でじっとしていたことを考慮してもおつりが来るくらいだった。
 トイレを済ませ、自販機でオレンジ果汁百パーセントの缶ジュースを買った。飲みながら、スタンドのスタッフがわたしの愛車に給油し、月の光の色をしたボディを丁寧に拭きあげてくれるのを見守る。
 レジを打ちに走って戻ってきた一人が、満面の笑みで言った。
「いやあ、かっこいい車っすねえ!」
「でしょう。どうしても手に入れたかったの」
「女のひとが運転してると、よけいにかっこいいっす」
「ありがとう」
 人から言われるまでもなく、ほんとうに美しい車だと思う。どれだけ眺めていても飽きることがない。
 力強さをそのまま具現化したかのような横顔。伸びやかなホイールベースや、リアウィンドーの急な傾斜も潔くて気に入っているし、長いボンネットの両サイドに浮かび上がる彫刻のような陰影はいつもわたしに、とくべつ優美なサラブレッドの鼻面を思い起こさせる。
 前から見たときの面構えがまたいい。二十三枚のメタルブレードからなるフロントグリルは品のいい威厳に満ちていて、一瞬すれ違っただけでも見る者に強烈なインパクトを与える。
 そして何より、明るいLEDヘッドライトをひときわ印象づける、「トールハンマー」のモチーフ……。
 それが気に入って購入したわけでは、もちろんない。むしろ逆だ。とことん惚れこんで買った車の顔、それもいわば瞳にあたる部分に、あのトールハンマーがデザインされていたという偶然は、わたしにとっては運命を感じるに充分な出来事だった。
 オレンジジュースの缶を捨て、車へ向かう。
 ほんのわずかに左脚を引きずるわたしを見て、さっきのスタッフがはっとした顔になる。今ではもう、めったに人に気づかれることはないほどなのだけれど、やはり娘が言うように長時間の船旅がこたえたのだろうか。
 運転席に乗り込むとき、彼はさりげなく手を貸してくれた。
「お気をつけて、行ってらっしゃい」
 若さに満ちた励ましの声が嬉しかった。

 誰しもそうだが、まっさらな状態から、新しいことを覚えるのはたやすい。白い布はどんな色にでも染まる。
 けれど、一旦刻み込まれてしまった情報を頭や心から追い出し、その上で別のことを覚えるのはとても難しい。染まった布から完全に色を抜き、別の色へと染め替えるのが困難なのと同じだ。
〈トールのやつにもう一度、人間を信じる気持ちを思い出させてやってくれ〉
 黒澤さんはそう言ったけれど、いったん人への不信感を募らせた馬にそれを忘れさせ、かわりに信頼を取り戻させるのは、口で言うほど簡単なことではなかった。
 たいていの場合は二歳になるころ鞍付けをするし、呑気な馬ならその日のうちに人まで乗せてしまうこともあるほどなのだが、トールの場合は急ぐわけにいかなかった。他の馬であれば多少の無理を強いてもどうにかなるかもしれない。あえて手順をすっ飛ばしたほうが良い結果がもたらされる場合もある。
 でも、根本的にこちらを疑っているトールに無理やり鞍を乗せたりしたら、元の木阿弥どころか、かろうじて今あるものまですべてが砕け散ってしまうかもしれない。日々、彼に触れるたびに、薄氷を踏む思いだった。
 背中に薄っぺらいタオルをひらりとかけても動じなくなるまでに、半年以上かかった。鞍下毛布を乗せるのに、もう二ヶ月。いちばん軽い競馬用の鞍で、さらに二ヶ月。しっかりとした乗馬用の鞍を乗せて腹帯まで締めることができたのはトールが三歳を迎えてしばらくたった頃だったし、とうとうわたしを背中に乗せて馬場を一周したのは四歳近くなってからだった。
 通常の何倍もの時間をかけたおかげだと思う。その頃にはトールの疑心暗鬼はすっかりなりをひそめ、以前のように誰にでも甘えるそぶりを見せるようになっていた。一時は馬房に人が入ることさえ嫌がって暴れていたのに、このころにはわたしが行くとすぐさま寄ってきて、額を肩口にこすりつけたり、唇ではむはむと顔をまさぐって遊んだりするようになった。
 もともと群れで暮らす動物だけに、こちらが断固としてリーダーシップを取らなくてはいけない時もあるけれど、それだって、力で無理やり従わせるのではない。馬が自分から従いたくなるのが理想だし、そのためには何よりもまず、信じてもらわなくてはならない。お互いがお互いの、最も安心できる相棒となるように。
 そうしていざ気持ちが通い合うようになってくると、わたしはよけいにトールが可愛くてたまらなくなった。週末ごとに朝から晩まで牧場に詰めていた。両親は、早くいい人を見つけなさいと口うるさかったけれど、わたしの心はトールのことだけでいっぱいいっぱいだった。
 ……少し、うそがある。
 正確には、トールと黒澤さんのことでいっぱいだった。
 黒澤さんはわたしの気持ちなど知らなかったと思う。とにかく馬のことしか頭にない朴念仁だし、わたしのほうも、気づかれないように細心の注意を払っていたから。
 告白なんてとうてい無理だった。ふたまわり近くも年の離れた小娘が何を言っても、冗談だろ、と笑われておしまいにきまっている。そう思うと言えなかった。
 今のわたしからするとずいぶん臆病で笑ってしまう。
 でも当時は、彼のことがほんとうに好きだったのだ。歳を重ねてからではどうしたって取り戻せないほどのひたむきさで、あの頃のわたしは、黒澤さんに焦がれていた。

 新ひだか町を過ぎ、静内温泉の近くも通り過ぎると、国道二三五号線はほとんど波をかぶりそうなほど海岸に近くなる。
 海へと突っ込んでゆくかのような長いながい坂道を下り、ひたすら走る。タイヤの横滑りなど、気にする必要はない。車にゆだねていれば大丈夫だ。
 このまままっすぐ行けば襟裳岬に辿り着くのだけれど、二三五号線が浦河の町なかで二三六と名前を変えてから、なおもしばらく走ったところで、わたしはハンドルを左に切った。少しゆくと、ダートロードに入る。
 通常のV90よりも車高の高いクロスカントリータイプでよかった。うっかりするとお腹をこすってしまっていたかもしれない。それくらい、道はでこぼこしていた。
 木立の中をゆっくりと進む。わずかに紅葉の始まった木々の梢から、まぶしい木漏れ陽が降り注いで、わたしの車を彩る。強い光と濃い影とがボンネットを愛おしげに撫でさすり、するすると後ろへ遠ざかってゆく。
 いきなり、警報が鳴った。行く手に何か大きな生きものが飛び出してきたのだ。馬かと思ったが違う、エゾシカだ。しかも雄。でかい。
 びっくりしたせいで一瞬ブレーキが遅れたけれど、車はそれより早く滑らかに減速していた。
 これがあれか、と思った。大型動物検知機能。
 こういう機能が、つまり前方に大きな動物がいる時に衝突を回避してくれるシステムが、この車に標準装備されているのは知っていたが、幸いなことに東京では体感したことがなかった。もちろん自転車や歩行者にもちゃんと反応してくれるわけだけれど、相手がシカとは、さすが北海道。夫や娘に話してやったら何と言うだろう。
 立派な角を戴くエゾシカが白いお尻をひらりひらりと閃かせながら道の反対側の林へ入ってゆくのを見送り、なおも車を進める。
 やがて、目的の看板が見えてきた。