相棒 村山由佳
相棒 村山由佳

 何かと思えば、数日前に生まれたばかりの子馬の名付け親になってほしいと言うのだった。
 馬は、生まれてすぐ立ちあがるし、数時間後にはよろよろしながらも歩き、翌日にはもう走る。野生の環境では、そうでないと生き残れないからだ。
 たくさん並んだ馬房のすぐ裏手にある小さな馬場で、ぴょんぴょん跳ねては不器用に駆けまわる赤みがかった栗毛の子馬を、わたしは飽かず眺めた。生まれたばかりの子馬を見るのはそれが初めてではなかったけれど、自分が名前を付けるのだと思ったら、すでにとくべつな気持ちだった。

 トール、と名付けた。
 子どものころ好きでよく読んでいた北欧神話。その中に出てくる、戦と雷と農耕をつかさどる神様がトールだ。金髪に赤いひげ、天上の国アースガルズに住むすべての神々の力を合わせても敵わないほどの怪力を持ち、手にした無敵のハンマーで巨人族を討ち滅ぼす──そんな豪胆な神様の名前など、こんなに小さくて細っこい子馬には荷が重いかもしれないと思ったけれど、黒澤さんは眉尻を下げて賛成してくれた。
「荷が重いったって、今のうちだけしょ。じきに、なまらでかくなる。すぐだわ、すぐ」
 名前のせいなのかどうか、トールは、子馬のうちから大胆だった。
 馬というのはとても警戒心の強い生きもので、とくに小さい間は母馬から遠くへ離れないのがふつうなのに、トールは、生まれた翌週にはもうさっさとひとりで放牧地を駆け回っていた。母馬のほうが気を揉んで、しきりにいなないては呼び寄せようとしていたのを覚えている。
 半年たった頃に親と離し、徐々に軽い調教というか馴致を始めてからも順調だった。トールは度胸が据わっていて、誰に対しても人なつこかった。
「こいつはいい馬になりそうだな。肝っ玉も太いし、いくらか歳を重ねて落ち着いてきたらトレッキングにもいけるんじゃないか」
 外界から守られた馬場や放牧地とは違って、トレッキング、つまり野山での外乗でお客さんを乗せられる馬というのは限られている。突然の出来事や物音にいちいち驚かない豪胆さが必要なのだ。黒澤さんの期待は大きかった。
 けれど、どういうわけだろう。あるときからトールが急に、人に対して警戒心を露わにするようになった。そばへ寄ると、耳を後ろへ引き絞って顎を上げ、こちらを威嚇しようとする。無理に従わせようとすると、噛みつくそぶりまで見せるくらいだ。
 馬房の中、床の敷き藁を前肢でしきりに掻いているトールを眺めながら、
「もっと優しい名前をつければよかったのかな。こんなに気の強い子に育っちゃって」
 わたしが言うと、黒澤さんはむずかしい顔をした。
「気が強いっていうのとは、ちょっと違うかもな」
「どういうこと?」
「こいつはさ、人間に従いたくないんだ」
「それって、気が強いのとどう違うの?」
「ぜんぜん違うっしょ。相手を信用してなけりゃ、従うことなんかできない。こいつはたぶん、そうするのが怖いんだわ」
「怖い……」
「そう。人間が怖い。頭絡をかけられるのも怖けりゃ、蹄を削られるのも怖い。要するに、誰のことも信用してない」
 ぼんのくぼのあたりが、しん、と冷たくなるほどショックだった。しばらく前まではあんなに人なつこい馬だったのに。
「どうしてこんなことに?」
「わからん。こういうのはもともとの性格ってのが大きいもんだけど、それにしたって急だよなあ」
 多くの馬を見てきた黒澤さんにも、わからないことがあるのだと知った。
 それから間もなくだった。数ヶ月前に入ったばかりのスタッフが一人、問答無用でクビになった。
 トール以外にも数頭の馬たちを担当していたその若い男は、なんでも前の職場で馬に腹を蹴られたとかで、よほど痛い思いをした経験があったようだ。そのせいで馬に対して根本的な恐怖心があり、毎日馬房の掃除をするのにもいちいちトールの腹や胸を力まかせに蹴って隅へ追いやったり、レーキの柄でこづいたり、ホウキで殴ったりなどしていた。黒澤さんがたまたま、他の馬の出産を見守るために監視カメラをチェックしていて、その現場を目撃したのだという。
 さらに、これは後からわかったことだけれど、男はトールを放牧地まで引いていく時も、ちょっとでも抵抗するとすぐさま手に隠し持っていた古釘などでつつき、無理やり従わせていた。トールがちょくちょく怪我をして血を流しているのは、元気が余って牧柵などに突っ込んでいくせいだとばかり思っていたのに、飼育している側の人間のしわざだったのだ。受け容れがたい、けれど動かしようのない事実だった。
 男を解雇した後で、黒澤さんはわたしにそのあたりの事情を説明してくれた。
「ひどい」涙が噴き出した。「馬が怖くなったんなら、その時点で厩務員なんか辞めちゃえばよかったじゃない!」
 自分でも、お嬢様育ちの苦労知らずだから言えるセリフなのだろうとどこかでわかっていた。誰にだって、生活はある。でも。だけど。
「だいたい、信じられないよ。あんなに可愛い動物を、どうして怖がったりするの」
 怒りのあまり、泣きながら地面を踏み鳴らすわたしに向かって、彼は静かに言った。
「まあ、気持ちそのものはわからないわけじゃないよ」
「え?」
「俺だって、馬は怖いもんな」
 驚きのあまり、涙が引っ込んだ。
「だってそうだろ? あのひづめで思いっきり蹴られりゃ、人間なんかひとたまりもない。それだけの力を持ってる大きな動物を相手にする以上、ちゃんと対処するためにも、ちゃんと怖れることは必要なんだわきっと」
 大事なことを、言われている気がした。
「だけどな」と、黒澤さんが続ける。「いくら怖いからって、あいつみたいに馬を威嚇しして、力でねじ伏せようなんていうのは間違ってる。恐怖心から人間に従ってる馬は、もっと大きな恐怖が迫ったら、こっちの言うことなんか絶対に聞かなくなっちまう」
 そう──たしかにそうだ。彼の言う意味はよくわかる。
 でも、逆に、ふっとわからなくなってしまった。これまでわたしは、馬たちに、どうやってこちらの言うことを聞いてもらっていたのだろう。力でねじ伏せた覚えはない。もちろん、脅したこともない。それでも、多くの馬たちはわたしの気持ちを汲み取るかのように従ってくれていたし、思い返せば、お互いの間には何かこう、言葉にならないものが行き交っていたような気がするのだ。
 いろいろ混乱して押し黙ってしまったわたしに、黒澤さんはやがて言った。
「さとちゃん、俺、頼みがあるんだわ」
「……なに」
「なんとかしてトールのやつに、もう一度、人間を信じる気持ちを思い出させてやってくれないか」