相棒 村山由佳
相棒 村山由佳
相棒 村山由佳

 仙台から乗ったフェリーを苫小牧で下りると、そろそろお昼だった。
 十五時間ぶりに堅い地面に戻れたのが嬉しくて、走りだしながら車の窓を全開にする。
 吹き込んでくる秋の風をまともに受け、自分が船の帆になったような心地がする。胸いっぱいに吸い込んで、わたしは、身体に溜まっていた古い空気をぜんぶ入れ換えた。
 生まれて初めてのフェリーの旅は快適だった。天候に恵まれたおかげで思ったほど揺れなかったし、S寝台はカプセルホテルのようで、しかも女性専用客室を指定したおかげで気兼ねなく過ごすことができた。
 乗船する前はひとりで十五時間なんてどうやってつぶそうと思っていたけれど、そのうちの六、七時間は夢の中だったし、起きている間はひろがる大海原を眺めながら食事をしたり、映画を観たり本を読んだりしているうちにいつのまにか過ぎてしまった。
 本格的に走り出す前に、まずはコンビニに寄る。何はなくとも熱いコーヒー。朝食をしっかり摂ったから、おなかはまだすいていない。
 再び車に乗ろうとして思いだし、〈無事に下船しました〉とLINEを送ると、すぐさま電話がかかってきた。
「よかった。今ちょうど、パパと心配してたとこ」
 この春から大学に通い始めた娘は、勢い込んで言った。お気楽な彼女はともかく、夫は今日も仕事のはずだ。電話でかLINEでかは知らないが、娘と遊んでいる暇などないだろうに、と苦笑がもれる。
「長距離の運転で疲れたでしょ。腰とか、大丈夫? 痛んでない?」
「大丈夫だったら。あの車のシートの座り心地、知ってるでしょう?」
「だって、そのあと船で十五時間もさあ。個室にすればって、だから言ったのに」
 二人ともわたしの体調を気遣って、しっかりしたベッドのある個室をと言ってくれたのだけれど、気ままな一人旅にツインだのスイートだのは、もったいないなどと言うより前に不似合いだ。
「充分過ぎるほど快適だったわよ」
 と、わたしは言った。
「なら、いいけど。もうちょっとこまめに連絡してくれても」
「あら、ゆうべ寝る前にも送ったじゃない。〈おやすみ〉って」
「じゃなくて、もっとこうさあ。朝ごはんとか海の写真とかさあ」
「やあよ。せっかくの一人旅なんだから、日常はきれいさっぱり忘れたいの」
「あたしたちのことも?」
「当然」
「うわ、お母さんてば冷たい」
 何を今さら、とか、まあそれもそうだけど、などと笑い合い、電話を切る。連絡がないのが無事の証拠だと思ってちょうだい、と最後に念を押しておいた。
 高校の頃までは何をするにも自信がなく引っ込み思案だった娘と、こんなふうにさばさば話せるようになったのが、それだけで嬉しい。外の世界は、家族よりもずっとたくさんのことを教えてくれる。わたしの娘時代もそうだった。
 まだ熱いコーヒーをカップホルダーに預け、再び走り出す。小さな街を抜け、日高自動車道に乗る。
 仙台まで走ってきた常磐道に比べると、車の数はずっと少ない。アクセルを柔らかく踏みこむ。足裏ではなく、まるでわたしの脳と直結しているかのように、即座に心地よい唸りが応えて加速してくれる。
 優しくて寡黙な車の中から、別の生きものが現れて、大地をつかんで蹴るかのようなこの感じ。
 この瞬間が好きだ。
 もっと正しく言えば、この車が好きだ。
 運転に伴う操作の一つひとつが、どれも小憎らしいほど気が利いているから、だけではない。
 運転席に身体を滑り込ませ、上質な革製のシートに包み込まれるときの感触。ドアを閉めた瞬間の小気味よい音と、てのひらにたちまち馴染むハンドル。視界をまったく妨げることのないフロントガラスの先に、月の面のように輝く砂色のノーズがするりとのびている光景……。そういったすべてが、わたしの感覚にぴったりと寄り添う。おかげで最近は、他の車に乗る気がしなくなってしまった。
 今回、わざわざフェリーを選んだのもそのためだ。日高、新冠を抜け、浦河まで続いてゆく二三五号線──この海沿いの道を、どうしても、自分の車で走りたかった。
 運転席側に広がる真っ青な海が、近づいたり離れたりする。秋の空は素敵だ。水平線との境目がぱっきりと分かたれて、雲などひとつもない。
 道はまっすぐなようでいて、思い出したようにゆるやかにカーブする。わたしがこうして思う存分、海や空や草地の美しさを感じていられるのも、この車のおかげだ。中央ラインを自ら読み取ってハンドルを微調整し、うっかり進路を逸れていってしまうのを防いでくれる。
 いたれりつくせりの配慮は、歳を重ねた今はなおのことありがたい。気持ちの上では若い頃と何も変わっていないつもりでも、目も、とっさの判断も、反射神経も、同じではないのだから。北海道を久々にひとりで旅したい、とわたしが言いだしたとき、夫や娘があれやこれや心配しながらも快く送り出してくれたのだって、相棒がこの車なら、というところが大きかったと思う。
 道路と海との間には、わずかに金色を帯びた、けれどまだまだ緑の濃い草地がひろがっていて、時折そこに簡単な牧柵がめぐらされ、馬たちが放牧されているのが見える。このあたりは日本有数の競走馬の産地なのだ。
 さらさらとまぶしい陽射しを浴びて、毛色もさまざまな美しい馬たちが草を食む。その向こうには、碧い海と白い波。吹きつける風が波頭を散らし、砂を舞いあげ、馬のたてがみや尾をなびかせる。そうしてややあってから、わたしの車の右側面をぐいっと押す。
 ああ、なんて懐かしい。
 もう二十年ほども前になるのか。あんなふうな草地を自由に疾駆していた頃があった。
 車ではなく、馬の背に乗って。

 あの頃、わたしは札幌の短大を出て就職したばかりだった。地元に本社のある某有名企業の社長秘書。
 と言っても、その社長というのは父の大親友だったし、他にも数名いる秘書ともども週末は完全にお休みをもらえたので、世間様に申し訳ないくらい楽なお勤めだった。おそらく両親が一人娘のわたしに望んでいたのは、早いうちに良縁に恵まれて嫁に行き、自分たちに可愛い孫を抱かせてくれる、それだけだったのだろうと思う。
 わたし自身、当時はまだ今ほど自由人でなかった。適齢期とか、世間体とか、そんなものを人並みに気にしていた。
 それでも、どうしてもやめる気になれなかったのが乗馬だ。小学生の時から習い始め、障害飛び越し競技で大会に出るようになり、一時はオリンピックまでも視野に入れるほどのめりこんでいた馬の世界。いくつかの挫折があって競技からは遠ざかってしまった後も、馬に乗るという楽しみだけはずっとわたしとともにあった。
 週末ごとに、父のVOLVO850を借りては日高を抜けて浦河まで通った。海べりから少し山あいに入ったある牧場では、心得のある者には広い馬場や放牧地で自由に乗らせてくれるのだった。
 その牧場で、わたしは黒澤さんという調教師と仲良くなった。あの当時で四十代の初めくらいだったろうか。数えきれないほどの競走馬を育てては送り出し、競馬界を去ってからは乗用馬を大切に育ててきた彼は、あまり雄弁ではないものの、言葉を惜しまず一生懸命にいろいろなことを教えてくれた。
 刺激的な日々だった。これまでよく知っているつもりでいた部屋の、てっきり壁だと思いこんでいたところからじつは外へ出られることに初めて気づくみたいな、そんな感覚。黒澤さんは知らない世界への扉であり、その世界をもっと深く知るための師匠だった。
 通い始めて半年が過ぎた頃だったか。ある日、黒澤さんはわたしを見るなり手招きをして言った。
「さとちゃん、名前とか付けるの得意?」