見守り猫 新野剛志
見守り猫 新野剛志

 順調にいけば五時ごろには仕事が終わる。待ち合わせは青山にあるカフェでだった。杉並区永福にあるこの屋敷から、四十分もあればいけるだろう。そう思っていたのだけれど、四時半になって、江口から用事を頼まれた。江口の自宅にある、能面をとってきてくれというのだ。それをこの家で撮影したいのだと。能面は江口が趣味で集めている骨董品で、それをここで撮影するのは、雑誌とは関係なく、ほぼプライベートなことだった。もちろん、それを理由に僕が断ることはない。カメラマンアシスタントに仕事とプライベートの区別などあるわけがない。
 江口は車を貸してやるから、とまるで恩を売るような感じで言った。師匠の車をアシスタントが運転するのは本来当たり前のことなのだが、うちの師匠は車の運転が好きで、ほとんどいつも自分で運転していた。師匠が運転する車で現場に向かうアシスタントなんて僕くらいのものだ。
 江口の自宅マンションは渋谷区笹塚にある。車で往復四十分くらいで、戻ってきたら、五時過ぎ。そこから撮影を始めるから、もう真紀子との待ち合わせに間に合わないのは、ほぼ決定的だった。
 それでも僕は、雨のなかコインパーキングまで走っていった。なんとかならないかな、とまだ考えているし、真紀子が考え直してくれないかと祈っている。けれど、真紀子が本気だ、と言ったときは、大概、硬い決意で実行するものだった。
 ぴかぴかに磨きあげられたシルバーグレイの大型ワゴンはコインパーキングで目立っていた。江口の愛車ボルボV90。まだ納車されて二ヶ月ほどの新車で、江口以外がステアリングを握るのは、ほんとに初めてなのではないだろうか。そういう意味では、貸してやる、と言った江口の言葉は案外切実なものであったかもしれない。
 初めて運転席に座った。エンジンスイッチを(ひね)ると、目覚めるように、メーター、センターディスプレイなどに明かりがともる。静かなエンジン音が耳に心地よく響いた。
 初めて運転する車にいくらか緊張しながらも、僕は強めにアクセルを踏んだ。やはりまだ、諦めていない。

 少し飛ばして江口のマンションまでは十五分で着いた。ありがたいことに、江口から連絡を受けていた奥さんが、荷物をもって一階のロビーで待っていてくれた。ショッピングバッグ、ふた袋をもって、僕はマンションの前に駐車したボルボに戻った。
 このV90には様々な先進機能が搭載されているらしいが、いつもリアシートにふんぞり返っている僕にはよくわからない。僕にとって重要なのは、手が塞がっていてもセンサーでリアゲートが自動で開くこと。カメラマンアシスタントにも優しい車だった。
 ラゲッジスペースに袋を積み、僕は運転席のほうに向かった。ドアを開いたとき、「ちょっと、あなた」と呼ぶ声が聞こえた。
 エントランスのほうに目を向けると、こちらに小走りでやってくる老婦人。なんと、笹倉さんだった。
 今日はワンピース姿だったが、和服のときと同じく、小刻みな足取り。傘もささず、なんだか必死な感じがした。
「ああ、やっぱり中里さんね」
「どうして、ここに?」
「お友達のところを訪ねただけです」
 立ち入ったことを訊くなといわんばかりの、ぶっきらぼうさだった。ともあれ、驚くことでもなかったと僕は納得した。もともと、このマンションに住む笹倉さんの友人から、江口はいい日本家屋があると聞いて笹倉さんの屋敷に目をつけたのだった。
「もしかして、私のうちに戻りますか」
「ええ、いま江口の荷物を取りにきたんです」
「じゃあ、私を乗せていってください」
「いいですよ。ちょっと、飛ばしますが」
「ええ、飛ばしてください。病院にいかなければならないの。友達が運ばれたっていま連絡があって。すぐに出発して」
「ちょっと待って。いくのはうちではなく、病院ですか」
「ちょっとそれますけど、うちの方向です」
 違いはないでしょ、と言わんばかりだが、いまの僕はちょっとでもそれたくない。
「すみませんが、急ぐもので。タクシーでいかれたほうがいいですよ」
「タクシーを捕まえてる時間はありません。いま友達が倒れたって連絡があったんです。一刻を争うかもしれないのよ。家を借りるだけ借りて、あとは知らんぷりなんですか」
 それとこれとは話が違う気がする。
「ああ、もう」と言って笹倉さんはドアに手をかけた。
「わかりました。乗ってください。送りますから」
 笹倉さんと言い争うのは、時間の無駄な気がした。ひとまず乗せて、途中で降ろしてもいい。
 笹倉さんを乗せて後ろのドアを閉めた。運転席のほうに向き直ると、開いたドアからさっと車に入っていく小さな影が見えた。僕もボルボに乗った。
 後ろを見ると、膝に手を置き、笹倉さんは静かに座っていた。僕はシートベルトを締めながら、助手席のほうに目を向ける。
「そこに、いたんだ」
 助手席のフットスペースに、黒い猫がうずくまっていた。哲学書でも読みそうな、やけに理知的な顔をした猫だった。
「急ぐんだろ。早く出発しろ」
 与一じいさんが言った。
「じいちゃんが、言ったとおりだ。今日はだいぶ運勢が悪そうだ」
 僕はアクセルを踏み、ボルボを発進させた。
「お前はほんとに頭が緩いな。今日、明日の問題じゃないだろ。彼女を失ったら、お前の一生の損失だ」
「やっぱり知ってるんだ」
 僕はふいに思いついて、背後を窺った。
「笹倉さん、気にしないでください。僕は運転すると、独り言をしゃべる(たち)なんです」
「大丈夫。この歳になると、何ごとも動じなくなるものです」
 そう言いながらも、ルームミラーに映る顔は、ちょっと強ばって見えた。
 笹倉さんは、病院の名前と場所を伝えた。方南町にある病院は思いのほか、遠回りにはならなそうだった。また言い争うのも面倒で、このまま送ってしまおうと決めた。
「どうするんだ。彼女に会いにいかなくていいのか」じいさんが言った。
「いいとか、悪いとかじゃない。いけないんだ。仕事なんだから」
「そんなの、後回しでもいいだろ。せっかく車に乗ってるんだから、さーっと彼女に会いにいって、渋滞で遅れたとでも言えばいい」
「師匠に嘘はつけない」
「じゃあ、ほんとのことを言えばいい。お前、師匠に逆らったことないのか」
 眠たげな黒猫の目が、僕を(さげす)んでいるように見えて、いらっとした。
「そんなの訊く必要がないでしょ。俺のことはなんでも知ってるんだから」
「逆らってみろよ。お前のそういうところ、彼女も見てるんだと思う。だから、仕事でもなんでも時間までにこいといったんじゃないか」
「じいちゃん、彼女の心が読めるの」
「読めるとかそういうことじゃない。俺には女心というものがわかる。そっちの世にいたころからな」
 うっしっしっしと、哲学猫には似合わない笑い声が聞こえてきた。僕はそれ以上、じいさんの意見を聞く気をなくした。
 笹塚から甲州街道を走ってきたが、環状七号線を右折して、方南町に向かった。笹倉さんはずっと静かだったが、後ろで声が聞こえていた。笹倉さんにまで、おしゃべりする猫の連れがいるはずはないから、携帯電話で話しているのだろう。
「ちょっと、止めて。引き返して」
 笹倉さんの叫ぶような声が聞こえたのは、もうすぐ方南通りにでるというときだった。
「どうしたんですか」
「違ったの、病院が。てっきりいつも通っている病院かと思ったんですけど、倒れたのが新宿で、救急車で運ばれたのは信濃町の病院だっていま聞いたのよ。だから、そっちに向かってください」