見守り猫 新野剛志
見守り猫 新野剛志

 笹倉さんは戸を薄く開き、「あっちへおいき」と言った。猫は足を下ろし、地面に座って、こちらを見ていた。やはりじいさんなのかなと見ていても、声は聞こえてこなかった。
 笹倉さんが、「あっ」と声を上げた。戸をぴしゃりと閉めた。
「どうしました」と訊ねながら、その慌てた様子に、僕は確かに不穏なものは感じていた。
「虫が入ってきた」と聞いたときは、なんだそんなことかとほっとした。笹倉さんは首を巡らし、虫の行方を追っていた。「いた」と隠れんぼの鬼のように、歓喜と闘争心が入り交じった声を上げても、まだ僕はのんびりかまえていた。何しろ、笹倉さんは七十半ばの高齢者だし、和服を着ているし、偏屈ではあるけれど、旧い屋敷の女主人らしく上品であったから、「いた」に続く行動などするはずがないと思っていた。
 女主人が突然走りだした。小股でさささっと、僕には見えない虫に向かっていく。
「そっちいっちゃだめ」と声を上げたときにはもう遅かった。ストロボライトのコードの上を通過するところだった。通過した、と見えたのもつかの間、ライトのスタンドがぐらっと揺れた。笹倉さんも前につんのめった。
 畳に手と膝をついて、笹倉さんは転んだ。
 やってしまった。ライトはどうにか倒れなかったが、ずいぶんと位置がずれてしまった。
「大丈夫ですか」
 僕は笹倉さんに駆け寄った。気になるのはライトのほうだったけれど、それをそのまま表にださないだけの分別はあった。
「大きな声をだすから、驚いてしまったじゃないですか。虫もどこかへいってしまった」
 まるですべて僕が悪いと言ってるようだった。とにかく、けがなどなさそうだ。
 笹倉さんが立ち上がったとき、スタイリストとヘアメイクが、モデルを連れて縁側を歩いてきた。
「お待たせしました。メイク完了です」
 ヘアメイクの桂が戸を開いて、江口に呼びかけた。
 大変だ。撮影が始まる。
「笹倉さん、そこに立っていてください」僕は慌てて襖を閉めながら言った。
 きょとんとする笹倉さんの手を引き、モデルの立ち位置に誘導する。
「そのまま動かないで」
 確認用のライトをつけ、スタンドを動かす。笹倉さんのほうを見ながら、ライトの当たり具合を確認する。
「おい中里、いまごろ何やってんだ」
 江口の怒鳴り声が飛んできた。
「すみません、すぐに終わらせますので」
 僕は息が止まってもいいと思いながら、限界まで声を張り上げた。

 ライティングを復旧させるのに、十五分もかかってしまった。「いったい、何年アシスタントをやっているんだ」とか「この時間泥棒が」とか、後ろで江口にさんざん嫌味を言われながらだから、よけいに時間がかかった。
 これをパワハラだなんて呼ばないでほしい。アシスタント業なんて、たいていこんなもんだし、もっときついお叱りを受けることも珍しくはない。
 ともかく、この騒動は完全に僕の責任。現場保持はアシスタントの仕事で、笹倉さんを制止できなかった僕がまずかったのだ。だから笹倉さんから、ごめんなさいの言葉が聞こえなくても僕は気にしない。
 十五分遅れで始まった午後の撮影だが、その後は順調に進み、予定どおり、午後五時には終わった。しかし撤収しているとき、江口が、やはり雨のなかのショットをせめてワンカットでも撮りたいと言いだした。予備日でもう一日、笹倉邸は押さえていたし、午後からなんとかモデルのスケジュールも押さえ、明日、もう一度ここに集まることになった。気象予報では、明日は午後から雨模様だった。
 翌日、午後から撮影隊は集合した。しかし、機材のセットを終え、雨合羽まですでに着込んでいるのに、かんじんの雨が落ちてこない。僕は庭に立ち、天を見上げて雨乞いをした。それもカメラマンアシスタントの立派な仕事、――のはずだ。
 今日は庭に猫の姿をよく見かけた。三匹くらいの猫が、入れ替わりで庭を散策している。女主人が不在だからかもしれない。笹倉さんは、午後いっぱい用事があってでかけていた。昨日のような邪魔が入らないから、今日は安心して撮影できる。しかし、雨が降らない。
 茶トラが足にまとわりついていた。大きいタマタマをつけた、ボス猫みたいな面がまえのやつだが、僕の足に体をこすりつけ、やけに愛想をふりまくのが怪しい。僕は「じいちゃんかい」と声をかけた。猫はすぐさま口を開いたものの、うぎゃーと恐ろしげな声で鳴くと、離れていった。
 変な猫、と思ったが、幸運の猫だったのかもしれない。それから一分もたたないうちに雨が降りだしたのだ。
「お待たせしました、雨が降ってまいりました」僕は張り切って声を上げた。
 それからもたびたび、茶トラを見かけた。とうとうその正体を現したのは、雨が小やみになってきたときだった。腿のあたりに痛みを感じて振り返ると、茶トラが伸び上がって、前足を僕の腿にかけていた。すぐに足を地面に戻し、僕の周囲をぐるっと回る。
「今日のお前の運勢は最悪だ。気をつけろよ」
 猫がまたしゃべった。もちろん与一じいさんの声だ。
「気をつけろって何に。じいちゃん、そういうこともわかるの?」
 猫は何も答えず、とんとんとんとリズミカルな足取りで離れていく。
「何、ひとりごと言ってるんだ。雨がやんできたから休憩だ」
 江口に愛の拳固をくらった。僕は雨乞い要員として、庭に残された。
 雨乞い中、メールの着信音が鳴ったが、真剣に雨乞いに取り組む僕は、携帯などさわらなかった。江口が煙草を吸いにでてきて、代わりに俺が雨乞いをするから、お前も少し休憩しろと言ってくれた。時折見せる師匠のさりげない優しさに――実際、いつもたいしたことではないのだけれど、僕はころりと騙される。いい師匠だなとしみじみしながら、休憩に入った。そこで僕はメールを開いた。
 そうではないかと思っていたが、メールは真紀子からのものだった。文面を読んで、僕は目を疑った。思ってもみなかった内容だったのだ。
 最初はいつもの調子で今日のデートの誘いだった。三日前に喧嘩をして以来、まだ仲直りをしていなかったが、さっぱりした性格の真紀子は、喧嘩してそれっきりでも、日を置いて何もなかったようにメールをしてくることがよくあった。今日は予備日でもともと休みだったから、会えたら会おうという話は前からしていた。
 時間と場所が指定してあるのもよくあることだ。二時半にメールしてきて、五時半に会いましょうというのはちょっと性急だけれど、これまでなかったわけではない。しかし、最後の一文はこれまでにないもので、僕は喋る猫以上に気が動転した。
〈三十分待ってこなかったら、もう二度と会いません。別れましょう。私は本気です〉

「お疲れ様です。お先に失礼します」
 午後四時にモデルは帰っていった。撮影はそれで終わりではない。ファッションフォトの合間に差し込む、雨に濡れた紫陽花や軒からこぼれる雨だれなどの風景写真をこれから撮影するのだ。けっしてカメラマンの自己満足のカットではなく、雑誌に掲載の際は、それがあって初めてひとつの物語が完成するような重要な写真だ。
 僕は真紀子に対して怒っていた。あんなメールを送られたら、仕事に集中できやしない。もちろん、仕事に集中できないほど動揺もしていた。
 あのあとすぐに返信してみた。今日は結局撮影が入って、いけないかもしれないんだ、と送ったら、それでもどうにかしてきてと返ってきた。もしこなければ、本当に別れるからと。
 同じ業界にいて、僕の立場をわかっているはずなのに、なんでそんな試すようなことをするのだろう。腹がたってきて、いったんはいかないと考えたのだけれど、彼女と別れる決心などできるわけがない。そんなことはこれまで考えたこともなかった。
 彼女のほうはどうなのだろう。デートに遅れたこと以外に何か、僕への不満があったのだろうか。やはり一度、そのへんを話してみる必要がある。一度も何も、今日会えなければ、一生、会えなくなるかもしれないのだけれど。