見守り猫 新野剛志
見守り猫 新野剛志

 自分が悪いことはわかっていた。時間に遅れたり、急遽いけなくなったりしたのは、今回ばかりではない。ほぼ仕事がらみの理由で、申し訳ないとは思うが、しかたがないとも思っていた。普段は許してくれる真紀子が、積もり積もって、怒りを爆発させたのもまたしかたがないと感じていた。
「彼女はお前にはもったいないひとだ。もう二度とあんな素晴らしいひとは現れない。しっかり捕まえておかないとだめだぞ」
「じいちゃん、もしかして未来が見えるの?」
「見えやしないが、わかる。長年生きていたんだから、それくらい当たり前にわかるさ」
 確かに、普通に考えて、真紀子は僕にはできすぎたひとといえる。雑誌の編集者をやっているしっかり者で、見た目だって悪くはない。しかし、僕にとって何より重要なのは、話が合い、これほど落ち着ける相手はいない、ということだ。
「スタイルもなかなかいい。着やせするタイプだよな、彼女は」
 ひひひとまた笑い声が聞こえた。
「じいちゃん、やっぱりそういうのも見てるの。最低だよ、孫の彼女の――」
 僕は言葉を止めた。縞猫の様子がおかしかった。歯を剥きだし、威嚇するように、ふーっと音を立てて息を吐きだした。
「何、怒ってるの。そんな、怒ってるのはこっちだよ」
 猫はふーっとまた息を吐きだすと、くるりと尻尾を向けた。後ろ足で蹴りだすようにして、椅子から飛びだす。地面に着地すると、猫らしい躍動感を見せて、駆けていった。
「じいちゃん、消えちゃったの?」
 返事は返ってこなかった。

 フラッシュメーターで露出を計ると、f4。江口の希望どおりでばっちりだ。室内撮影のライティングのセットが組み上がった。あとは師匠がカメラをもってシャッターを押すだけ。
 完璧なセッティング。カメラマンアシスタントの鑑。誰も褒めてくれないから、僕は自分で褒めてやる。実際は、そんなのは当たり前で、師匠が望むことを先回りして、すべてやり終えておくのが、アシスタントの仕事だ。完璧にできなければ、もうそれは人間以下の扱いだった。
 僕は準備ができたことを伝えて回った。
 今日は雑誌のファッションシューティングだった。紫陽花が綺麗に咲く古い日本家屋を借りての撮影は、順調に進んだ。空模様が安定しているうちにと、午前中からずっと屋外での撮影が続いた。僕はせっせと紫陽花や石灯籠に水を吹きかけ、梅雨らしい画面づくりに注力し、機材の移動もひとりでこなした。昼食を挟んで、これから屋内での撮影だった。
 モデルのメイクが遅れていた。あと五分ほどかかると伝えて回りながら、コーヒーのおかわりを運ぶ。江口が煙草をきらしたというので、僕はポーチから買い置きをだして渡した。
 午後の撮影は、庭に面した和室からだ。日焼けしていい味のでた襖の前でのスナップショット。僕はセットを組んだ部屋に戻り、縁側の引き戸を全開にした。部屋が外と一体となり、開放的で伸びやかな空間になる。写真に写るわけではないが、江口はそんな空気感を大切にする。
 ずざざざっと音が聞こえて、振り返った。背景となる襖が移動していくのを見て、僕は一瞬肝を潰した。なんのことはない、襖が開いただけなのだが、セッティングを終え、間もなく撮影というときに背景となるものが移動するなんてあってはならないことで、必要以上に驚いてしまった。
 襖の開口部に着物姿の女性が立っていた。向こうも、すぐ前に立つバウンスライトに驚いたようだ。
「笹倉さん、すみません、もうすぐ撮影が始まるので、そこは閉め切っておきたいんです」
 僕は快活に言った。
 笹倉京子。この屋敷にひとりで暮らす女主人だ。戦前に建てられたこの家よりいくらか若いと言っていたから、七十半ばくらいなのだろう。生まれたときから、ずっとこの家に暮らしているそうだ。
「ああ、そこ通らないで。足元に気をつけて」
 笹倉さんがこちらに向かってきた。天井に向けたバウンスライトとソフトボックスをつけたストロボライトの間を通ろうとした。ストロボのコードがちょうどその間を通っていて、足に引っかけでもしたら、ストロボが動いてしまう。
 ライトがちょっと動いただけでも、ライティング効果は大きく違ってしまう。また元に戻すのはかなりの手間だった。
「私はどこでも通ります。ここは私の家なんですから」
 そう言いながら、コードをまたいだ。
 大丈夫だ。引っかけなかった。
「ここの戸、開けっ放しは困ります。閉めてもらえますか」
 笹倉さんは、僕のところへきて言った。
「開けっ放しって、いま開けたばかりなんです。どうしてだめなんですか」
「家は湿気が大敵なんです。こういうじめっとした時期に、開けっ放しはよくないでしょ」
 笹倉さんは強い調子で押してくる。
「じめっとって言っても雨は降っていないですし、閉め切っておくほうが、湿気がこもるような気がします。時々換気をしたほうがよくないですかね」
「なんだか、あやふやですね」
「あやふやですが、本気でそう思うんです」
 僕は顔を引き締め、アシスタント魂を見せつけるように、声に気迫をもたせた。外部の圧力から現場を守るのも、カメラマンアシスタントの重要な仕事だ。
 笹倉さんが偏屈そうなひとであることは、撮影に貸してほしいと頼みにいったときからわかっていた。撮影に貸して、いったい私になんのメリットがあるんですか、と老婦人は冷たく言った。まったくそのとおりだが、面と向かってそんな言い方をするひとにお目にかかったことはなく、江口も編集者も一瞬言葉を詰まらせた。最終的に撮影の許可はでたが、笹倉さんの考えを変えさせたのは、いったい何が決めてだったのか、よくわからなかった。
 とにかく、簡単に説得されるようなひとではなく、いまも手強い交渉相手だったが、アシスタント四年目の僕だってそれなりに場数を踏んでいる。粘り強く交渉し、三十分に一回は戸を閉めて、十五分たってからまた開けるという妥協点を見つけた。それぞれの数字に、なんの根拠もなかったけれど。
「まったく、やな天気ですよ。降るなら降る、どっちだか、はっきりしてほしいですね」
 いったん戸を閉めた僕は、笹倉さんの言葉に、責められているような気分になった。
 庭に猫が一匹迷い込んでいた。真っ白い猫が、庭で煙草を吸う江口に近づいていく。
 じいさんが現れたかと思い、僕は目で追っていたが、どうやら違ったようだ。猫は江口の足にまとわりついた。じいさんが男に愛想を振りまくわけなどない。それでも、時折目が合ったような気になる、どこか猫離れした猫だった。
「江口さんが鈴木伊三郎賞をとったころは、作家性のあるドキュメンタリー写真でなかなか見応えがありましたが、いまではすっかりファッションのひとになってしまったんですね」
 僕はえっと声を発し、笹倉さんを見た。その評し方に異論はあるが、それより、以前から江口のことを知っていたような口ぶりに驚いた。これまで、そんな話はしなかった。
「写真がお好きなんですか」
 江口は一流の写真家で、業界では名をしられているが、一般のひとの口にのぼるほどではなかった。
「……いえ、たまたま知っていただけです」
 言い訳するような感じなのが不思議な気がした。
「中里さんはどうしてカメラマンになろうと思ったのですか。誰かの影響ですか」笹倉さんは話題を変えるようにそう言った。
「もちろん、好きな写真家とかはいましたけど、それよりやはり写真を撮るのがすきだし、写真で何かを表現したかったからですね」
 与一じいさんの影響も少しはある。やはり身近に写真があったのは大きい。小学生のころ、学校の行事の写真をじいさんが請け負っていた。身内の仕事をする姿は、いつもと違って見え、単純にかっこよかった。子供たちの緊張を解こうというのか、ずっと笑顔を浮かべていたから、その仕事も楽しそうだった。そんな憧れから僕は写真を撮り始めたのだ。
「あらまあ、やだ」と笹倉さんが言った。僕の答えのどこかがまずかったのかと思ったが違った。笹倉さんの視線の先には先ほどの白い猫がいた。体を伸ばして戸に手をかけ、爪を研ぐように、がりがりやってる。