見守り猫 新野剛志
見守り猫 新野剛志
見守り猫 新野剛志

 僕がその猫に注目したのは、華奢でおっとりした顔をしているくせに、やけにふてぶてしい足取りで道を渡ってきたからだった。まるで町を牛耳るボス猫のように、のっそのそと歩く。しかし、本格的に怪しいと感じたのはそのあとだった。
 灰色がかった縞柄の猫は、植え込みのブロックに腰かける女の子ふたり組に近寄ると、急にふてぶてしさを消し、ごろんと地べたに転がって愛嬌を振りまいた。かわいい、と女の子が声を上げると、むくりと起き上がり、すかさず女の子の足にまとわりつく。
 普通、猫が足にまとわりつく、といったら、胴体をこすりつけるものだが、この猫はほおずりするように顔をこすりつけた。ブロックから腰を上げ、しゃがみ込んだ女の子の足首から腿、お尻へと、ずりずりっと顔をなすりつけていく。
 いやらしい、と僕は思った。
 それは、計算高いという意味のいやらしいではなく、エロいという意味でだ。華奢な体つきからして雌猫だと思われるから、そんな気持ちで女の子に近づくはずはないのだけれど。――いやいや、雄猫でも、人間の女の子にいやらしい目を向けるはずはなかった。
 この猫スケベかもと言って、女の子はきゃはきゃは笑っていた。言い当てられてばつの悪い思いをしたはずもないが、縞猫はさっと女の子から離れた。
 またのっそのそと歩いた。いまはふてぶてしいというより、しょぼくれて見えた。
 猫背になかなか哀愁が漂う。これが人間だったらどんなタイプだろう。ハンバーガーを食べ終えた僕は、暇にまかせて考えた。
 華奢でふてぶてしくて猫背でエロい。そんなふうに並べて考えたら、すぐにひとりの人物が頭に浮かんだ。中里与一。三年前に亡くなった僕の祖父だ。猫のイメージなどまるでなかったけれど、何より最後のエロいという言葉がじいさんのイメージを引き寄せた。
 じいさんは、若い女の子が好きだった。ただそれだけのことだったのかもしれないが、僕が高校のころ、地元の駅前で、女子高生に写真を撮らせてほしいと頼み、いやだよエロじじいと言われたところを目撃してしまったのだ。自分の身内がそんなふうに呼ばれるのを見るのは、高校生にとっては、けっこうきつい体験だった。
 遊歩道のなかにある細長い公園から、フェンスの下を潜って縞猫は道にでてきた。歩行者の流れなどまるで無視をして真っ直ぐ歩いてくる。――僕のほうへだ。
 ハンバーガーショップのテラス席にいる僕の足元に、猫は腰をおろした。行儀よく前足を揃え、眠たげに目を細めてピンクの舌を見せた。ここへくれば、何か食べ物にありつけると知っているのだろう。
「ひと足遅かったね。もう全部食べ終わっちゃったよ」僕は声にだして言った。
 猫は目をつむり、大きく口を開けた。みゃーと哀しげに鳴く、と思ったら違った。
「おい順平、いい若いもんが、休みにひとりで何やってんだ」
 猫がしゃべった。しかも、この声は――。
「猫なんて見ている暇があったら、女でもナンパしにいけ」
 (しわが)れているけど、張りのある声。それは与一じいさんの声だった。
 僕は危うく後ろにひっくり返りそうになった。

「お前、思った以上にアホだな。猫がしゃべっているのに、それほど驚いていない」
 縞猫は僕の隣の椅子に寝そべりながら言った。
 見上げていると首が疲れると言って、先ほど軽快に飛び乗ってきた。じいさんでもさすがに猫の身体能力だった。
「適応能力が高いと考えてほしいな。最初は驚いたけど、じいちゃんの声だし、じいちゃんなら化けてでてきても不思議じゃないし、まあ、そういうこともあるかなと、俺は受け容れてます、完璧に」
 しかもここは原宿のキャットストリート。しゃべる猫がいるとしたら、これほど相応しい場所はないと思った。
「なんで、俺が化けてでてきても不思議じゃないんだ」
 憤慨した声。猫は肉球のついた手を振り上げた。
「だってじいちゃん、口うるさかったから。死んでもああだこうだと口だししたくなって、でてきそうな気はしたんだ。去年、写真館を売りにだすとき、じいちゃんが怒ってる声が聞こえるって、依子おばちゃん、真剣に怯えた顔していたよ」
「そんなことで、怒るか。継ぐ者がいないんだから、さっさと売ってしまってよかったんだ」
 与一じいさんは親から継いだ写真館を営んでいた。そのあとを継ぐ者はおらず、二代で終わってしまった。
「じいちゃん、ちょっとそのまま動かないで」
 僕はテーブルの上から一眼レフのカメラを取り上げた。
 寝そべっていた猫がごろんと横になり、ちょうど腕枕をしている格好になった。こんなポーズの猫を写真に収めるのは難しいものだ。僕はレンズを向け、シャッターを切った。
「こら、俺で遊ぶんじゃない」
 今度は椅子に座っているような格好をさせ、足を組んでもらった。
「手は胸の前あたりね。ちょっとの間だけ、そのまま」
 こちらの要望どおりにポーズをきめてくれる猫なんて、他にいるはずはない。こんな写真をSNSで公開したら、話題になるかも。
「じいちゃん、なんででてきたんだい、俺のところに」
 ひとしきり写真を撮り終えて僕は訊ねた。
「できの悪い孫の顔が見たくなったわけもないしな。なんでだろう。きっとお前が、ひとりで寂しそうに昼飯を食べていたから、遊んでやろうと思ったんだろ」
「そんなことで、でてくるもの? 普通、幽霊って、何か心残りがあってでてくるもんだよね」
 猫がしゃべろうとたいして気にしていないけれど、じいさんがなんで猫の体を借りて僕の前に現れたのかは、けっこう気になった。孫のなかでいちばんのはみだしものが僕だった。うちの姉は商社マンに嫁ぎ、現在、ブラジルで妊娠中だ。依子おばちゃんのところのふたりの娘は看護師と教師でともに堅い職業に就いている。僕はといえば、大学を卒業していったん一般企業に勤めたが、カメラマンになるという夢が諦められず、一年で退職し、カメラマンのアシスタントになった。現在三年がたって、まだまだ修行の身。未来などまるで約束されていない、半端者だった。
 死んだ祖父があの世でのんびりしていられないほど心配をかけているのだとしたら、いちおう孫としては申しわけなく思う。
「おい順平、何、しけた面をしてるんだ。女と喧嘩したくらいで、そんな顔するもんじゃない」
 縞猫は椅子の上に起き上がり、前足を宙に浮かせてお座りをする。通りすがりの女の子が、かわいいと悲鳴のような声を上げた。
「じいちゃん、いまさらだけど、じいちゃんの声は他のひとには聞こえてないの?」
「当たり前だろ。誰にでも聞こえたら、明日の朝刊に載るわい」
「じゃあ、俺はひとりごとを言っているように見えるんだね」
「ほんとにいまさらだな。隣のテーブルにいたカップル、気持ち悪がってさっき帰っていったぞ」
 隣に目を向けると確かにいなくなっていた。デート中に気色の悪い思いをさせてすまなかったなと考えていたとき、ふとあることに気づいた。
「なんで俺が彼女と喧嘩したことを知ってるの」
 猫にそんな話はしていない。
「天からいつも見下ろしてるんだ、知ってるに決まってるだろ」
「いつも? すべて見てるの?」
「いつもっていうのは違うか。あの世に時間の感覚はないからな。とにかく、お前の姿やお前の見たものは、だいたい把握できてると思うよ」
 そう言ってじいさんは、ひひっといやらしい笑い声を上げた。
 僕は顔を青くした。この三年間、じいさんにすべて見られていたなんて――。
「喧嘩なんてものは、どっちが悪いとかないんだ。だけど、時間に遅れるのはまずい。昔だったら、三十分も待たせたら、問答無用で帰られた」
「だけど、仕事だったんだ」
 実際は仕事ではなかった。今日は休日だったが師匠の江口創に呼びだされ、買い物につき合わされた。真紀子には事情を説明して、予め待ち合わせの時間を変更した。しかしその時間にも間に合わず、二時にはいくと言って向かったら、十分遅れた。彼女はもういなかった。十分遅れただけ。向かっているのはわかっていたのに、なんで待っててくれないのかと電話で文句を言ったら、キレられた。最初に電話があったときにはもう家をでていたから、それから考えれば、三時間もひとりで時間を潰したのだと怒っていた。