横顔 谷村志穂
横顔 谷村志穂

 そこで策を働かせたのが、当時の武将、武田信玄公だった。湧水の中央に石の三角柱を埋め込み、三つの村に均等に水が流れていくように分水嶺とした、その三つの先にそれぞれの水路を作り、水の等分に成功した。当時としては、最先端のハイテクノロジーだったろうか。
 段差から流れ落ちた先に、平場の水たまりができている。その中央に、三角柱の分水嶺は確かにあった。貴之にはその分水嶺が美しかった。頭の先がわずかに見えているだけで、特別な主張は一切ない。シンプルで美しい。
 自分の乗り続けている自動車メーカーが開発した三点式シートベルトと同じように、知性は多くの人を救う。シンプルで美しいからこそ、そこに継続がある、と貴之は改めて感じ入る。
「日本名水百選の一つにも選ばれていて、ここはね、特別にいい水なんだって」
 そう玲奈が言った頃、貴之は改めて水際へより、石の分水嶺の周囲の水の流れを見ていた。それもまた、静かで美しかった。
「はじめて来たのはね、初等部のとき。春のオリエンテーションがあったでしょ。みんなでソフトクリーム食べた帰りに、うちのクラスだけ連れてきてもらったの」
 玲奈が夫婦を振り返って言う。
「そうか、あの頃の高山先生、歴史が好きだったものね。珍しいね、玲奈ってどこへ行っても地図も見ないし、地名すら覚えて帰ってこない子だったのに、こんなに覚えているなんて」
「最近なんだけどね、思い出したの」
 母親の言葉も反抗せずに受け入れられる余裕が、今日の玲奈にはあるようだ。
 貴之は膝を折って腕を伸ばして、両手で水をすくった。
「冷たいな」
 そう言うと顔の近くまで運び、水の匂いをかぐ。心なしか、樹木の香りが混じっているようだ。
 玲奈は両手を水につけて、ひゃひゃっと声をあげている。
 山麓から流れ込んだ水は、分水嶺で渦を巻き、木漏れ日を浴び、鈍くきらめきながら、きれいに三つの水路へと流されていく。その水流の美しさは、いくら眺めていても飽きがこないほどだ。
「ねえ、玲奈は、どうしてここを思い出したの?」
 不意に美紗子がそう言って、玲奈を見た。
「もうじき、家族三人が別々の方へ進むような気がしたから? だったら違うわよ。別々になるなら、玲奈だけなんだから。パパとママは、別々になんてならないわよ」
 なぜそうむきになるのか、また感情的になってそう言う母親に、玲奈は小さくため息をつき、だが明るくこう言った。
「確かに私たちは三人家族だし、小学生の頃にはじめてここを見たときには、ちょっとは自分たち家族みたいだなとか思ったかもしれないよ。でも、この間思い出したときの理由は、そんなんじゃないの」
 そこまで言って、ん? とばかりに母親の方を見やった。
「夏期講習の教室が暑くて、あのきれいな水のところへ行きたいな、と思った。あの水ならよほど冷たくて美味しいだろうな。飲みたいな。春になったら雪解けだし、そのときまでがんばろうって思ったんだよ」
 そこまで言って、玲奈は立ち上がると周囲の置き石を飛んで回って、呟いた。
「なのに、ごめんね。受験、終わらなかったね」
 美紗子は、急に水際まで近づいていって、両手で水をすくい顔を拭う。飲料用ではないのに飲んでしまったのか、「おいしいわ」と、口にした。きっと自分が不甲斐なくて、少し泣きたくなったのだと貴之は思った。
 いつもそばにいる美紗子には気づかないのかもしれないが、一人娘は、自分たちより先を見て成長している。そうでなくては、困るのだ。彼女たちが、新しい時代を作るのだから。
 だが美紗子に、それを言葉で伝える方法が貴之にはわからなかった。娘を守ることで必死だったのだから、娘が巣立っていくそのときには、置いてきぼりな気持ちになってもそれは仕方のないことだろう。
 玲奈は、両手で水をすくった。幾度もすくってはこぼしてみせる。今日の分も、明日の分も、来年までの分をもその手が飲み干すように、水をこぼして遊んだ。
「だけど、そうだよね、うちにも分水嶺を置きたいね。流れてくる時間は、ママの時間、これからは、パパと私のためだけでなく、ママのためにも使っていいよ。ちゃんと三つに分けて使ってね」
 そう言うと、玲奈は少し照れたように目尻を下げて、またからっと続けた。
「おなか、空いた」
 すぐ近くに、この湧水を使った手打ちそばの店があるのも、玲奈はさきほど助手席でタッチスクリーンを操作しながら、調べてあった。蕎麦屋の暖簾をくぐる。
「うん、いい匂い。このお店ならきっと美味しいわ」
 と、美紗子は言う。おいしい店を見つける勘は、いつも美紗子が誰より勝っている。彼女にとってのその勘も、家族を育むのに必要な知性だったのだと貴之は思う。
 店内で席につくと、それぞれ天婦羅や鴨焼きなどの添えられたそばを頼んだ。まだ育ち盛りの玲奈は、食後のそばプリンまで頼み満足そうだ。
 食事を終えて外に出ると、澄んだ湿り気を帯びた、いい風が吹いてきた。さきほどの三分一湧水からの水の輝きを含んだような、しっとりした風だった。
「久しぶりに楽しいわね」
 美紗子はそう言って、さらに続ける。「とても、気持ちがいいところ」
 肩までの明るい色の髪が、柔らかく風に吹かれている。美紗子の両腕が空へと伸びをする。ただそれだけで、そう言ってもらえるだけで、がんばれるんだよなと貴之は思う。力が湧くんだよな、と。
「さあ、これからどうする? 今度は安曇野まで行って、今日二回目のそばでも食べるか? それとも長野だって通り過ぎて新潟まで行ったっていいよ。二人は後ろで寝ていたっていいんだしさ」
 貴之がそう言うのを、母娘はからかうように笑う。
「また今度にする。なんだかんだいって、受験生なんで、今日はこのくらいにしておきます」
 そう言う玲奈の腕を、今度は美紗子がつかんだ。
「玲奈、だけど、少しくらいなら寄り道したっていいよね。私も実は、行きたかった場所があるの」
 そう言って、美紗子もいつの間に用意していたのか、彼女の「ケータイ」の画面を二人に見せた。