横顔 谷村志穂
横顔 谷村志穂

「小淵沢の方でもいい?」
「いいけど、玲奈、あてはあるのか?」
 すると娘は、長い髪も耳にかけて小さくうんうん、と頷いた。玲奈が子供の頃から、なにか企んでいるときの顔だった。だがその横顔はすでに女性らしく、頬もすっきりしている。 「私、パパやママを連れていってあげたいところがあったんだよね。それで、選曲はこれ」
 玲奈の音源は、新しい車のインテリジェンス機能と同期を始める。モニター画面には、選曲されたアルバムのジャケットが映し出される。芝の上に転がった三人の男達の笑顔が、モニター画面いっぱいに広がっている。
「イギリスの新しいグループで、最近結構好きなの」
 そう言う玲奈は、小さいときからその「ケータイ」で洋楽ばかり聴いていた。英語だけは塾にも行かずに好成績を取り続けた。進学を前にどこかよそへ出たいと言い出したので、てっきり海外への留学を切り出すのかと思っていたら、別の大学で心理学を学びたいのだという希望を打ち明けた。
 流れ始めた曲はアコースティックだがロックテイストが深く、悪くない。
「すごいな、これは」
 玲奈は音響に驚いたようで、ボリュームを少しあげ「ホールにいるみたい」と、声にして車の室内を見渡す。
「しかも、かなりいい席を確保したという風だろう」
 そう答えながら、貴之の心が弾み始める。
「じゃあ、準備OKだね。ママ、席替わろう」
 玲奈がそう言って助手席の扉を開こうとしたとき、美紗子が首を横に振るのが、バックミラー越しに見えた。
「今日は、玲奈がそこでいいよ」
 かすれたような、妻の甘やかな声だった。
「だけど、もうナビのセットも終わったよ」
 すると美紗子は、小さく唇をすぼめて、こう言った。
「今の玲奈はちょっとかっこよかったし、頼もしいところ、後ろからもっと見ていたい」
 言われた方は、えーっとばかりに肩をすくめている。
「大丈夫だよ。このシステムの操作なら、君だってすぐにできるはずだよ」
 貴之はそう言いながら、バックミラーの中の美紗子をふと見やる。妻は今、後部シートでシートベルトまでしめてしまい、黙って窓の外を眺めている。自分の娘が知らないところで成長していること、子供たちこそがきっとこれからの新しい時代を牽引していくことを、夫婦はいろいろなときに感じ合う。そんなとき、うれしいような寂しいような気持ちになる。今日は共に味わえたのだからよかったと貴之は思う。きっといつもは美紗子一人が毎朝毎夕の中で受け止めることが多いのだろう。
 イギリスの若いバンドが刻む軽快なリズムに包まれ、レザーシートの肌触りを楽しみながら、思わずアクセルを踏み込む。机上で想像していたスペックがリアルなレスポンスに変換されてゆく。新しい車と出会う、この瞬間しか会えないある種の興奮だ。
 タッチスクリーン式のセンターディスプレイが表示する中央自動車道は、いつも通りなれたはずの道なのに新鮮に描き出される。
 確かな走破性をステアリングごしに感じ、気分がいい。
「シートにマッサージまでついて、これ受験生のための車なんじゃないの?」
 などと、玲奈は久しぶりにはしゃいでいる。
「この車はさ、インテリセーフといって、衝突回避に役立つ自動ブレーキの機能もついている。いい名前だろ? インテリセーフ」
「なんか、パパっぽいわ、それ」
 広く切り取られた窓から入り込む春の日差し、山間部をくぐり抜けるように進む中央自動車道からの車窓にも、緑が深くなっていく。大月を過ぎると、勝沼、韮崎、須玉と周囲の山々も色濃く感じ、窓を少し開くと空気も格別にひんやりしている。
 ナビゲーションシステムから、長坂インターで降りる指示を受けた。センターディスプレイは、角度が自在で運転席からストレスなく視野に入る。
 料金所を通る瞬時のうちに、玲奈はモニター画面のマップをタッチして、さらに拡大していった。
 一般道へと降りていくと、
「ここだ。パパ、ここまで行ってね」
 地図上でそう指差したのは、貴之にはまったく知らない地名だった。八ヶ岳の方へと進んでいくようだ。
 サンブイチ、と書いてある。
「玲奈、ここ知ってるのか?」
「知ってるよ、だから行こうとしてるの」
 と、少し得意気だ。
「サンドイッチ?」
 後ろから美紗子も顔を出してくる。
「サンドイッチじゃないよ。サンブイチっていうの。そうか、ママも知らないんだね。なんかうれしいな」
 玲奈はそう言うと、不意にステアリングを握る貴之の横顔と、後ろから顔を覗かせる美紗子のそれぞれを、手の中の「ケータイ」で撮影した。
 車を停めた駐車場はがらんとして、木立に囲まれたひっそりとした公園の入り口のようだった。奥に広がっているのは、こじんまりした自然林だ。
 玲奈の後を夫婦が二人で続いていくと、じきに水辺の気配を感じた。空気が澄んでいて、しっとりとしていた。
 水面が放つ光はきらめきになり、少し遠くからでも運ばれてくる。水流の立てる音が響き始め、滝と呼ぶには大げさなものの、石で組まれた段差をごうごうと水が流れ落ちていた。水は生きているかのように、白いしぶきを跳ね上げていた。
「そう、ここです」
 玲奈が先に小走りにいってたどりつき、こっちこっちとばかりに手を振って夫婦を呼んだ。
〈三分一湧水〉
 そうか、こう書いてサンブイチなのか。
 漢字で表記された掲示板を、ここでようやく見つめる。山梨県北杜市、そこに書かれた文面は、ここは歴史の中で一つの意義深い場所なのだと伝えていた。
 八ヶ岳南麓からのこの湧き水は、昔から近隣の村々にとって貴重な水源だった。農業用水として欠かせないこの水をめぐり、戦国時代に入ると、三つの村は絶えず水争いをするようになる。