横顔 谷村志穂
横顔 谷村志穂

 先ほどから庭では、ウグイスが鳴いている。そんなことにも気づかずに思い詰めたような表情の美紗子が不憫になって、貴之は小さくため息をつく。
「だから、わかってる」
 と、うなづいて見せる。
「だったらなぜこのタイミングで新しい車なんですか? あなたまで、こんな風にひとりで決めてしまうなんて」
 むきになる美紗子に、玲奈は車から降りて、俯いて家の中へと戻ろうとする。
「玲奈、パパまでママを怒らせちゃったよ」
 貴之が娘の背中に小さくそう呟くと、玲奈は鼻の付け根に皺を寄せて、艶やかな黒い瞳で笑い返してくれた。
 そんな娘にも、貴之はいつも静かな輝きを見る。情熱はまだ内側にあって、けれど娘はきっといつか新しい場所へとたどりつく。
 だから、言ってみた。
「二人ともさ、少しくらいいいじゃないか。今日は天気もいいし、最高のドライブ日和だと思うけどね。玲奈、この車は音響も、ちょっとすごいぞ。好きな曲、持っておいでよ」
「本当に? やったー、新しい曲、入れたばかりなんだ」
 と、玲奈はそうと決まれば相変わらず屈託がない。ショートパンツのポケットから手際よく「ケータイ」を取り出して見せる。
 その様子に、美紗子はまた顔をしかめているが、玲奈は駆けるようにして、着替えに戻った。その玲奈の生き生きとした姿を見ながら、貴之は窓辺の妻に言う。
「あいつなりに、がんばっているんだよ。一番ショックだったのだって、玲奈なんだと思うよ。なのに、あんなに明るくふるまってるのは、君を悲しませないためだ」
 美紗子の顔に一瞬驚きの表情が広がり、そのまま黙ってしまう。
「もしかして、気づいていなかったの? まさか玲奈がずっとただの能天気な子だと思ってた?」
「だって‥‥あの子って、呑気だから」
「僕はもう君にがたがたは言わないよ。いつも、感謝してる。だけど、ここから一年は、追い詰めちゃだめだと思うんだ。玲奈は大人になろうとしているんだよ。この一年、覚悟を決めるべきなのは、僕らの方だと思う。見ていてやろうよ」
 窓辺の妻は、じっと話に耳を傾けていた。
 しばらくすると、玲奈が玄関先に立った。眼鏡をコンタクトに代えて、長い髪をほどき、いつも通り黒いスキニーにボーイッシュなジャンパー、白いハイカットを履いている。玲奈が並んでたつと、セダンのこの車がとてもスポーティに見えた。
 美紗子も窓辺から姿を消すと、春らしいオレンジ色のコートに白いコットンのタートルネックとパンツに着替えて出てきた。美紗子もまた、この車とよく似合っていた。新しい車を、どこかエレガントに見せた。
 玲奈がいつも通り後部シートに乗り込もうとしたので、貴之は出発前に彼女の音源を操作しておこうと一度助手席に乗せた。
 北欧生まれのこの車は、ひとたびシートに身を預けると、コクピットにいるような高揚感をもたらす。インターフェイスに高解像度のタッチパネルが装備されている。最新のテクノロジーがすべて、9インチの美しいカーブを描いたパネルを通じて、指先だけで操作できると言っていい。
 玲奈はさっそく細い指を伸ばすと、そこに広がった新しい可能性を感じとったろうか。直感的に画面の操作を始める。
「わあ、すごい。これ、なんでもできちゃうね。中にめっちゃ天才が入ってるよ」
「インテリジェンス機能は、たぶん、どの車より新しいよ。音声操作もできるし、日々の欲しい情報も伝えてくる」
「まず、私がやりますよ」
 玲奈がわざわざそう宣言したのは、母親の気持ちを慮ってだった。小さいときから、玲奈は父親に対しては、まるで遠慮がなかった。二人きりのときは、ある意味わがまま放題だった。貴之には、娘のやることは多くが気にならなかった。ひとえに眩しかった。
 ただ玲奈は、母親に対しては何かと機嫌を伺っているようなところがあった。夫婦にはそういう役割があって当然なのだとも思っていた。なんだかんだいっても、日々の中で玲奈が頼っているのは母親なのだから。
「好きに触っていいぞ。ただ今のうちに、行き先も頼む」
 貴之はそう口にしてはじめて、どこへ行こうか決めていなかったのに気づく。このタイミングでそれを言えば、美紗子はまた機嫌を損ねるだろう。彼女がもともとそういう生真面目なタイプだったというわけではないのだ。結婚してしばらくの間も、美紗子と貴之はよくあてもなくドライブした。夜通し海辺の道を走っていることもあった。その頃美紗子はワンレングスの髪で、少し爪を噛む癖があった。
 二人はまだ、中古で手に入れた車が精一杯で、手入れしながら乗っていた。
 子供が生まれてからも、そうやってあてもなく過ごす日が貴之は好きだったが、母親となった美紗子は、突然雛を守る母鳥のように懸命になった。宿泊する予定で出かけるのなら宿は決めておきたい、ドライブコースには途中に立ち寄れる休憩場があるかなど、やたらと気にするようになった。貴之はあとになってからようやく、そうした情報を確保しておかねば、妻が落ち着けないのだと気づいた。
「それで、どこへ行く?」
 玲奈の質問に、貴之はおどけて答える。
「実はまだ、決めてなかったんだ」
「かっくしだよ、それは」
 玲奈は、アームレストにおいてあった肘を、かくっと外して見せる。
 後ろでは、二人のやり取りに呆れたように美紗子がため息をつき、だがやがて自分でもおかしくなったのか、笑い始めた。
「かっくしだなんて、玲奈も古いのね」
「かっくしは、永遠ですよ」
 と、玲奈も後ろを振り向いて笑う。
「今からだと、そうだな。安曇野あたりまで行って、そばでも食べるか」
 まだ朝の九時を回ったばかりだから、なんとか遅い昼飯には間に合うだろうと、貴之が腕時計で時間を確認して口にする。
 そのはじから、玲奈はモニターを操作していた。
「到着予定は、正午頃か。うん、いいと思う」
 玲奈が、そうひとりごちたモニター画面には、だが貴之の口にした安曇野ではない目的地が入っていた。見知らぬカタカナの地名だ。