横顔 谷村志穂
横顔 谷村志穂
横顔 谷村志穂

 家族にとっては、必ずしも良い春とは言えなかった。
 昨年、ひとり娘の玲奈が、女子高を卒業するその年度になって、それも春蝉の声が聞こえる時期になっていきなり、大学はよそへ出たいと言いだした。まるで、自分までがかさかさと包まれていたその殻から、飛び立とうとしているかのように。
 都心からは少し離れた場所にある瀬島家の周囲には、昔から雑木林が植わっている。四季折々、虫や鳥たちが、声をあげて季節を知らせてくる。
 玲奈は突然、春蝉がジジジジ、ジジジジと鳴くようにそう言いだした。
「どうしても受験したいの。お願い」
 自分の進路を自分で決めたのだから、立派な決意だと褒めてやりたい気持ちもやまやまだが、夫婦の目にはひとり娘のやることなすことが、まだどこか頼りなく思えていた。
「せっかく、黙っていても大学まで進めるんだぞ」
 瀬島貴之の口調はいつも通り穏やかだったものの、そう言ったきり窓辺に座り、横顔に陽光を受け、腕組みしてしまった。
 白木の家具をうまく使った和洋折衷のデザインの家で、大きな木枠の窓は、貴之が気に入って選んだ。雑木林を絵画のように切り取ってみせる。
 玲奈が通っていたのはエスカレーター式で進学する学校だが、そんなに悪い学校ではない。高校まではチェックのスカートの制服も可愛らしく、どちらかといえば人気の上位にある学校だ。
「考えられない」
 母親の美紗子は、突然一人で相談もなくそう決めた娘が、またいつものように少し許せなかった。娘の人生なのだから許すも許さないもないはずなのだが、そのまま大学まで進学できるからと、夫婦で考えた末に進ませた学校だった。少しでも苦労のないようと考えるのは、美紗子にとってみれば親なのだから当たり前だった。だから口に出る言葉はつい、許せないとなってしまう。いつまでも娘にそうやって考えを押しつけてはいけないとは思いながらも、美紗子の混乱はそのまま強い言葉になって出ていった。
「大体、もし受験をするならこんな時期になって言いだしても無理に決まっているでしょう。玲奈の思いつきでできることじゃないのよ。受験の子たちは、すでに必死なんだから」
 玲奈は長い髪で顔を覆うようにして、答えた。
「わかってるけど、もう決めたの。ちゃんとがんばるから、夏期講習にも行かせてください」
 そこから突然に始まった、玲奈の大学受験だった。春蝉の声がやむと、本格的な夏となり、次第に秋の虫が鳴き始め、庭の樹木が落葉する。冬には珍しく、幾日も雪が降った。
 玲奈は確かに夏も冬も講習に通い、模試も受け、志望校へは願書も複数出した。
 そうなったら美紗子はまた世話を焼きはじめ、塾の帰りが遅くなると、車で送り迎えもした。
 比較的平穏な時間が流れている方だったはずの瀬島家には、いつしか美紗子の、どこか熱の入りすぎた声が響くようになった。
「ケータイばかり、見ているんじゃありませんよ」
 高校生の娘に、子供相手のような叱り方をするのも、心配のあまりなのはわかる。
「テストの範囲、見てるだけなんだけど。それにね、ママ、これはもうケータイって言わないんだよ」
 玲奈の方が冷静にそう言葉を返す。娘がそのケータイで何か調べ物をしていても、ずっとただ遊んでいるように母親には見えるようだ。昔ケータイと呼んだその小さな道具の中で玲奈が見つけた何か、そのツールを通じて友人たちと密かに交わしている会話、そこから掴んでくるニュースのすべてが美紗子には危ういものにしか思えていないのは、貴之にもわかっていた。
 果たして、玲奈の受験の結果は出なかった。
 なので一人娘は、もう一度受験生となる、そんな娘と始まる新しい春を、家族は迎えたばかりだった。
 高等部の卒業式が終わって最初の日曜日、はじめから貴之はその日を選んでいた。
 タイルを敷き詰めた家のエントランスに停めた、ブルーに輝く車を、母娘は庭ごしに見つけたようだ。ブルー、それは海から拾い上げたばかりの貝を思わせるようなみずみずしい色だ。
「きれいな車、海みたい」
 コンタクトレンズではなく、丸いめがねをかけた玲奈が、素足にサンダルを履いて走り出てきた。春だというのにショートパンツに、ジップアップのパーカ姿で少し震えている。
「どうしたの? この車」
「いいだろう?」
「ええ、ってことは?」
「買い換えたよ。ママにもずっと内緒にしていた」
「パパ、やるじゃん」
 玲奈は手放しに喜んで、後部シートの扉を開く。シートに身を沈めて、新しいレザーシートの座り心地を確かめている。
 はじめはチャイルドシートだったのだし、玲奈は無意識のうちに、自分の席は後ろだと小さい頃から思っている。
「新しい革の匂いだね」
 娘は寝起きの顔で鼻先を動かし、運転席に身を乗り出してきた。そして、貴之の目を見て悪戯っぽく訊ねてきた。
「もしかしてさ、パパ、私の合格のお祝いにするつもりだった?」
 娘は図星だ。そうなるといいなという思いが貴之になかったと言えば嘘になる。だが、たまたまこの時期だったのも確かだった。ずっと乗り継いできた北欧生まれのこの車が、ちょうど新しいモデルを発表した。
 洗練されたデザインに、新しい時代を体現する最先端の機能が驚くほどに搭載されていた。それに、この静かな色合いにも惹かれた。
新しさを情熱に変えて、そっと秘めたような、好ましい輝きがあった。それは思えば彼がずっと探し続けているもののような気がするのだ。
「ちょっと出かけないか」
 貴之が、窓から顔を出している妻の美紗子にも聞こえるように言う。美紗子は、驚きの目を向ける。
「あなた、わかってるでしょ? 今の玲奈の状況」
「ああ、わかってるよ」
「だったら、そんなこと言ってる場合じゃないじゃない。玲奈、浪人生になっちゃったんですよ」