海辺にて 馳星周
海辺にて 馳星周

 V90にはインテリセーフと呼ばれる安全走行技術が組み込まれている。ボルボは二〇二〇年までに新しいボルボの車による死亡者や負傷者をゼロにするという目標を掲げて取り組んでいるのだとディーラーが言っていた。
 その企業姿勢のおかげで事故を免れたのだ。
「君たちはだいじょうぶか?」
 小枝子はシートベルトをつけているが、キャスバルはそうではない。
「キャスバルもだいじょうぶみたい。さすが、ボルボね」
「ああ、ボルボ様々だ」
 裕介は再びアクセルを踏んだ。
「でも、気をつけてね。どれだけ車が進化しても、一番は運転手なんだから」
「わかってる」
 V90に買い換えておいてよかった──小枝子の言葉に応じながら、裕介は思った。昔なら、農道を走る軽トラックを見落とすことなどなかったし、予想外のことが起きても、咄嗟に反応することができた。六十歳を超えた今、反射神経は確実に下降線を描いている。
 これからも、小枝子や犬といろいろなところへ出かけるだろう。田舎で暮らしている以上、車は手放せない。
 ならば、落ちていく一方の能力をサポートしてくれるシステムを搭載した車が必要になってくる。
 昨今、高齢ドライバーによる事故のニュースが後を断たないが、自動車メーカーの努力によってそれも減っていくだろう。
「浜名湖の近くでしょう、ここ? 晩ご飯は鰻を食べたいわ」
「本当に?」
 ただでさえ食が細くなっている上に、脂っこいものはほとんど口にしない。鰻を食べたいと言い出すとは考えてもいなかった。
「アディアと遊びに来た時に寄った鰻屋さんがあったでしょう? あそこ、美味しかったわ」
「覚えているよ」
「一人前はとてもじゃないけど食べられないと思うの。一口か二口食べれば充分。ふたりで鰻重一人前でも入れてくれるかしら?」
「後で予約を入れるから、その時確認してみるよ」
 鰻屋の住所と電話番号はスマホに登録してあるはずだ。
「楽しみだわ」
 小枝子が言った。小枝子の気持ちを読んだのか、キャスバルが盛大に尻尾を振っていた。太い尻尾がシートに叩きつけられるたびに、どすどすと派手な音を立てる。
「もう、相変わらず図体のでかい子供なんだから」
 口調はきつかったが、小枝子の表情は穏やかだった。
「本当に、年を取っても変わらないな、キャスバルは」
 裕介はそう言って、ステアリングを握り直した。

* * *

 キャスバルが裕介たちの家にやって来たのは、アディアが他界して半年が経った頃だった。
 裕介も小枝子も、犬のいない暮らしを考えたことがなかった。アディアが病魔に冒されているとわかったときから、いずれ、別の犬を迎え入れるのだろうという暗黙の了解がふたりの間にはあったのだ。
 裕介はバーニーズを飼うつもりでいた。あのトライカラーの毛並みと、穏やかな性格、賢さは何度付き合っても飽きることがない。
 だが、小枝子は首を縦に振らなかった。
「わたしたちに飼える犬は、年齢から言ってもあと二頭が限界でしょう?」
 一頭が十年生きるとして、二頭で二十年。裕介も小枝子も五十歳を超えていた。なるほど、飼えるのはあと二頭だ。
「最後はまたバーニーズと暮らしたいけど、その前に、別の犬種とも暮らしてみたいの」
 それで、グレートピレネーズと暮らすことになったのだ。ピレネーズはバーニーズよりさらにひとまわり大きい。バーニーズが大型犬なら、ピレネーズは超大型犬だ。
 その大きさに、はじめのうちは戸惑い、苦労も多かった。
 だが、長じるにつれ、キャスバルは大型犬らしい大らかさと穏やかさを兼ね備えたパートナーとして成長した。
 裕介や小枝子の出すコマンド──指示には完璧に従い、他の犬とトラブルを起こすこともない。そんなキャスバルはどこへ行っても人気者だった。キャスバルもまた、自分に触れる人間が喜ぶのを見るのを好んでいた。
 佐久へ移住したのを機に、様々なところへ出かけるようになった。長野県内はもちろん、岐阜、静岡、新潟、群馬、山梨。長野県は実に、八つの県と接している。どこへでも気軽に行くことができた。
 夏と冬、小枝子は長期の山行に出かける。昔は海外の山に挑むことも多かったが、五十歳を過ぎてからはもっぱら、日本の山に登る。北アルプスや南アルプス、八ヶ岳、時には北海道にも遠征した。
 だが、数年前から、登山の最中に体が重いと、帰宅してから愚痴をこぼすことが多くなった。すぐに疲れ、その疲れがなかなか抜けず、以前のような速さで登ることが難しいのだ、と。
 年のせいだろう、もう若くはないんだから──裕介の揶揄に、小枝子は沈んだ顔で応じた。確かに、年齢による衰えはある。だが、衰えの進み方が予想以上なのだと小枝子は言った。
 やがて、かつては一日で登り下りしていた山に登るのも苦労するようになり、小枝子は病院を訪れた。
 ステージ二の乳癌という診断が下った。左の乳房に直径二センチほどの腫瘍ができていたのだ。脇の下のリンパ節にも転移していた。
 医者は抗癌剤と放射線治療を勧めたが、小枝子はそれを拒否した。抗癌剤を使い続けた愛犬の死を看取ったのだ。化学療法は絶対に受け入れられないと小枝子は言い張った。
 裕介にも小枝子の気持ちは痛いほどにわかった。
 食餌療法と漢方。知人から東京で開業している代替療法の専門医を紹介してもらい、小枝子は癌と戦いはじめた。山には登らなくなった。いや、登れなくなったのだ。
 あれから三年、まだ小枝子の戦いは続いている。頑健だった体は徐々に痩せ、黒髪も白髪に変わったが、小枝子が死に対する恐れを外に出すことはなかった。常に傍らにいるキャスバルの存在が大きいのだろうと裕介は思う。
 キャスバルに余計な心配はかけたくない。残された日々がわずかだとするのなら、キャスバルと共に過ごす時間を精一杯楽しもう。
 小枝子はそう心に決めているようだった。

* * *

 舞阪の海岸にはやはり、人の姿はなかった。海風がときおり、砂を舞い上げている。海は穏やかにうねり、太陽の光を浴びて白く輝いている。車中にいる時から、キャスバルは息を荒げていた。
 アディアと違って、海が好きなわけではない。波打ち際には決して近寄らないし、もう砂浜を駆け回る年でもないが、普段とは違う場所で散歩をするのは、キャスバルにとっては大きな喜びだった。
 駐車場から海岸までは目と鼻の先だった。
 小枝子がキャスバルのリードを外し、海岸へ向かった。キャスバルはしきりに鼻をうごめかせていた。その仕種はアディアとそっくりだった。