海辺にて 馳星周
海辺にて 馳星周

 その目はそう訴えていた。
 リードを外してやると、アディアは波打ち際目がけて駆けだした。若かった頃の躍動感は失われている。だが、家では自分で立つことも覚束なかったアディアが走っている。
「ああ」
 小枝子の口から声が漏れた。
「ああ」
 小枝子は言葉にならない想いを吐き出していた。
「アディアが走っているよ」
 裕介は言った。小枝子がうなずいた。目は涙で潤み、頰が紅潮していた。風にあおられた黒髪が、涙で濡れた頰に張りついても、小枝子はただ、波打ち際をかけるアディアを見つめていた。
 砂浜にレジャーシートを敷き、途中のサービスエリアで買った弁当を食べた。アディアには小枝子が手作りした鶏のジャーキーを与えた。
 食欲が落ちていたアディアだったが、海岸では旺盛に食べた。
 気持ちが高揚し、病魔に冒された体に力を与えているのだ。
 食事を終えてしばらくすると、アディアがまた波打ち際に向かって駆けていった。本当に海が好きなのだ。
「連れてきてあげてよかった」
 小枝子が言った。
「うん」
 裕介はうなずいた。もう二度とアディアが元気に駆け回る姿は見られないと思っていた。小枝子のおかげだ。小枝子の発した言葉で、アディアは今、波打ち際で喜びを爆発させている。
「ありがとう」
 感謝の言葉が口から漏れた。
「わたしこそ、ありがとう。あなたがいてくれなかったら、アディアをここまで連れてきてあげられなかったもの」
 三十代まではぎくしゃくした夫婦関係だった。裕介も小枝子も譲るということのできない性格だったのだ。
 だが、犬と暮らすようになってから、ふたりの関係は劇的に変わった。夫婦の間に険悪な空気が流れると、犬は明らかに戸惑いの表情を見せる。
 家族なのに、どうして喧嘩するの? どうして仲悪くなるの?
 犬のために、無理矢理笑顔を浮かべた。そのうち、笑顔は本物になった。お互いを思いやれるようになったのだ。
 ありがとう──波と戯れるアディアを見守りながら、裕介はこれまで暮らしてきた犬たちに感謝の気持ちを伝えた。
 舞阪から戻った十日後、アディアの容体が急変した。完全に立てなくなり、呼吸も荒く、口の中の粘膜が血の気を失って白くなっていた。
 獣医師は、内臓のどこかにできた癌の塊が割れ、内出血を起こしているのだろうと診断した。
 輸血をすれば多少、病状は回復する。だが、それ以上のことはもうできない。
 痛み止めを処方してもらい、裕介と小枝子はアディアを自宅に連れて帰った。
 アディアを居間のベッドに横たえ、ふたりで見守った。アディアは呼吸するのが苦しそうだったが、それ以外は落ち着いていた。
「逝っちゃうのね、アディア」
 小枝子が呟いた。
「ああ、そうだな」
 哀しみと喪失感で胸が一杯だった。だが、裕介にも小枝子にも覚悟はできていた。旅立つ前に、海岸で思いきり走らせてやることができた。それだけで充分だ。
 別れは辛い。だが、それ以上の喜びを、アディアは裕介たちにもたらしてくれたのだ。
 二時間後、アディアの呼吸が止まった。
「ありがとう、アディア」
 小枝子がアディアに覆い被さって泣いた。
「ありがとう、アディア」
 裕介は動かなくなったアディアの頭に手を置いた。アディアはまだ暖かかった。

 浜名湖近くの農地を走っていると、突然、農道から軽トラックが飛び出てきた。
 ブレーキを踏む余裕も、ステアリングを切る余裕もない。
 衝突する──思わず首をすくめた次の瞬間、V90が減速した。自動ブレーキが作動したのだ。V90は軽トラの数メートル手前で停止した。
 裕介は額に浮かんだ冷や汗を拭った。走り去っていく軽トラは、どうやら、老人が運転しているらしかった。
「どうしたの?」
 目覚めた小枝子が身を乗り出してきた。キャスバルも息を荒げている。
「すまない。脇道から急に軽トラが飛び出して来てね。もうだめだと思ったが、自動ブレーキが利いて助かった」