海辺にて 馳星周
海辺にて 馳星周

 自分は安全に運転していても、他の車や歩行者がどんな動きをするかはわからない。いざという時に、咄嗟に回避行動を取れるかどうか、心許なくなってきているのだ。
 自分の衰えを認めるのは癪だったが、小枝子とキャスバルの安全には代えられない。
 それで、決めた。V90の安全性能を買ったのだ。
「どうもありがとうございました」
 中田が車から離れた。
「白いステーションワゴンに白い大型犬、そして綺麗な白髪の奥様。素敵ですね」
「ありがとう」
「今日はこれからどちらへ?」
 裕介は曖昧に首を振った。
「行き先は決めてないんです。疲れたら、道の駅かサービスエリアで寝て、疲れが癒えたらまた出発。気ままな旅なんですよ」
 荷室には、モーター付きのエアベッドを積んである。シートをフラットにして、エアベッドを膨らませれば、夫婦ふたりと大型犬一頭が横になって寝られるのだ。
「羨ましい。ぼくは今日中に東京に戻らないと、来週の仕事に響くから……」
「まだ仕事を頑張らなきゃならない年ですよ。気楽に行くのは定年後です」
「そうですね。ゆったりと過ごす老後目指して今は頑張ります」
 中田が軽く頭を下げ、ドッグランに足を向けた。中田と入れ違うように、小枝子とキャスバルがやって来た。
「蕎麦が美味しそうだよ。遅めの昼飯にしないか?」
 裕介の言葉に小枝子がうなずいた。
「そうね。薬を飲まなきゃいけないし。食べましょう」
 キャスバルが吠えた。裕介たちが食事をしている間、ひとりで車に残されるのがわかっているのだ。
「すぐ戻ってくるから、いい子にしてて、キャスバル」
 小枝子が頭を撫でると、キャスバルは甘えるように鼻を鳴らした。

 小枝子は首を傾けて眠っていた。薬を飲んだ後は決まって寝入ってしまうのだ。キャスバルもいつもの体勢で眠っていた。仲良く眠る姿は本当の親子のようだった。
 V90は新東名高速を西に向かって走っている。
 裕介たちの住まいは長野県佐久市の外れにあった。周りを山に囲まれた谷間の集落の古民家を改築した家だ。十年前に畑ごと家を買い取った。畑では高原野菜を栽培し、収穫した作物の一部は近所の直売所で売ってもらっている。裕介は英文の翻訳を生業にしていた。かつては欧米のミステリ小説を年に数冊訳せば食べていけたが、昨今の文芸不況で収入は激減した。農家の収入を合わせても暮らしが成り立たない。裕介は週に三日、佐久の市街まで出て、地元の中学生や高校生を相手に英会話を教える仕事を続けていた。
 どこかへ行きたい──今朝、目覚めた小枝子がそう言った。
 どこへ行く? 裕介が訊くと、美味しいソフトクリームが食べたいと小枝子が答えたのだ。それで、とりあえず、清里を目指した。小枝子のお気に入りのソフトクリーム屋がある。ソフトクリームを平らげた後、なんとはなしにV90を南に向かわせた。国道一四一号から五二号をひたすら南下し、新清水インターチェンジで新東名に乗った。運転しているうちに、海が見たくなったのだ。
 里山での暮らしには昔から憧れていた。その憧れは現実のものとなったが、無い物ねだりをしてしまうのは人間の業らしい。山に囲まれて暮らしていると、時々、無性に海が恋しくなる。
 海を思うと、アディアの顔が脳裏に浮かぶ。十年ほど前まで一緒に暮らしていた犬だ。バーニーズ・マウンテン・ドッグというスイス原産の大型犬だ。
 アディアは海が好きだった。だれもいない砂浜を縦横無尽に駆け回り、引いていく波を追いかけ、寄せてくる波から逃げ回った。
 あの頃はまだ、裕介にも小枝子にも体力があった。アディアと一緒に、日が暮れて辺りが暗くなるまで砂浜で遊び呆けていた。
 ジャンクションが見えてきた。どちらへ向かうか一瞬迷い、裕介はV90を直進させた。海へ行くのなら東名高速へ向かった方が早い。だが、運転しやすいのは新東名の方だった。浜松浜北まで高速で行き、その先は一般道を通って海へ向かうのだ。舞阪というところに広い砂浜がある。人の姿もまばらで、小枝子やキャスバルと過ごすには格好の海岸だった。
 ルームミラーに映り込む小枝子が頭の位置をずらした。皺が増えた寝顔はなにかに苦悩しているかのようだ。
 記憶が刺激される。あの日も、こうやって車を海に向けて走らせていた。ルームミラーに映る小枝子の髪は黒く、肌は滑らかだった。小枝子の傍らにいたのはキャスバルではなく、三色の毛並みのアディアで、その時のアディアはキャスバルと同じように年老いていた。
 そして、病に冒されていた。
 バーニーズ・マウンテン・ドッグの寿命は短い。犬種としては二千年近い歴史を持つのだが、ある時期、絶滅寸前まで個体数が減ってしまったのだ。そこから一部人間の努力によって数が増えていったのだが、遺伝子に問題のある個体しか残っていなかったらしい。
 癌や免疫不全で若くして死んでいくバーニーズは後を断たない。アディアも八歳の誕生日を過ぎてから体調が思わしくなくなり、バーニーズ特有の癌であると診断された。
 医師が勧める化学療法を、裕介と小枝子は断った。アディアの前に飼っていたバーニーズも同じ癌に冒された。その時は化学療法に頼ったのだが、癌は消えず、薬はいたずらに犬の体を傷つけるだけだったのだ。
 癌は静かに、確実にアディアの体を冒していった。数ヶ月後、アディアは裕介か小枝子の手を借りないと立つことも覚束なくなった。
 死期が迫っている。そう確信した時、小枝子が言ったのだ。
「まだ自分で歩けるうちに、アディアを海につれて行ってあげたいの」
 アディアの体調を考えて、遠出はできるだけ避けるようにしていた。だが、アディアは近いうちに旅立ってしまうのだ。体調悪化を心配するより、アディアの喜ぶ顔が見たい。心が弾めば免疫力は高まるはずだ。海に行けば、アディアは昔のように自分の脚で立って、波を追いかけるかもしれない。
 そう考えると居ても立ってもいられず、アディアをふたりで抱きかかえて車に乗せ、荷物を積んで慌ただしく出発した。
 いつもとは違うなにかを感じたのか、アディアの顔も期待に輝いているように思えた。
 向かったのは舞阪の海岸だ。アディアの体調を慮り、スピードを出しすぎないよう自分を抑えながら、しかし、気持ちだけは急いていた。何度もルームミラーに視線を飛ばしてアディアの様子を確認する。
 体調が急変したらどうしよう。
 それぐらい、ここ数日のアディアの様子は思わしくなかったのだ。
 保ってくれ。アディアの命よ、保ってくれ。
 もうすぐだ。もうすぐ、おまえの大好きな海に辿り着く。それまでは、どうか逝かないでくれ。わたしたちのそばにいてくれ。
 頭ではわかっていた。アディアが旅立つのはまだ先の話だ。だが、心がざわつくのを止めることはできなかった。
 舞阪に到着したのは昼過ぎだった。晩秋の海岸は風が強く、冷たく、人っ子ひとり、見当たらなかった。
 アディアは自分の力で車から降りた。鼻をうごめかせて潮の匂いを堪能し、きらきらと輝く目で裕介と小枝子を見上げた。
 走りたい。