海辺にて 馳星周
海辺にて 馳星周
海辺にて 馳星周

 道の駅まで後数キロという標識が見えてきた。
 浅野裕介はアクセルを踏む足から力を抜いた。ボルボV90型ステーションワゴンが、徐々に速度を落としていく。
「もうすぐ道の駅だよ」
 ルームミラーを見ながら、リアシートに声をかけた。鏡には妻の小枝子とその太股に顎を乗せて眠っているキャスバルが映っている。
 キャスバルはグレートピレネーズという大型犬種の牡だった。体重は七十キロ近く。全身は真っ白な毛に覆われている。
「キャスバル、起きて。トイレの時間よ」
 小枝子が首筋を撫でると、キャスバルが目を開けた。かつては黒曜石のようだった瞳が白く濁っている。白内障だった。この一年の間に、キャスバルは急速に衰えている。
 道の駅が見えてきた。裕介はウィンカーを点滅させ、駐車場にボルボを入れた。ドッグラン施設があることで、愛犬家たちにはよく名の知れた道の駅だった。
 ドッグランの近くにボルボを停めた。小枝子と協力して、キャスバルを降ろした。キャスバルも若い頃は自分の力で車に乗り降りしていた。今でもできないわけではないのだが、年齢を考えて、乗り降りを手助けするようにしている。重い体重が、衰えのみえるキャスバルの四肢に負担を与えるからだ。
「先に行ってるわね」
 小枝子がキャスバルのリードを持ってドッグランに足を向けた。裕介はトイレタリーの入ったショルダーバッグを肩から引っかけ、その後を追った。
 中年の女性が小枝子に声をかけている。声は聞こえないが、なにを話しかけているかはわかる。
「おそろいの毛の色ですね」
 そういったことだ。小枝子の髪の毛も、キャスバルの体毛と同様、真っ白なのだ。かつては引き込まれそうな黒髪だったのだが、この数年で真っ白に変わった。まるでキャスバルと合わせようとしているかのようだね──よくふたりで笑ったものだ。
 小枝子は登山家だ。若い頃にはヒマラヤの峰峰に挑戦したこともある。女性にしてはがっしりした体格で、キャスバルと並んで歩いても決して見劣りすることはなかった。だが、今では風に吹かれれば倒れてしまいそうなほど痩せている。白内障で視力の落ちたキャスバルが、そんな小枝子を気遣いながらのんびりと歩いている姿を見るのが裕介は好きだった。
 ドッグランには小型犬が数匹いた。トイプードルにミニチュアダックスフント、フレンチブルドッグ。どの犬も、キャスバルの頭より小さい。キャスバルがドッグランに入ると、飼い主たちの顔に不安の色が浮かんだ。
 小枝子はそんなことを気にする素振りも見せず、キャスバルのリードを外した。キャスバルは地面に顔を近づけ、しきりに匂いを嗅ぐ。今や、キャスバルには嗅覚がすべてだ。目がほとんど見えない代わりに、匂いを辿って行動する。
 ダックスが吠えながらキャスバルに突進していった。飼い主が制止の声をあげたが、ダックスの耳には届いていないようだった。ダックスはキャスバルの一メートルほど手前で止まり、吠え続けた。キャスバルはまるでその声が聞こえないかのように地面の匂いを嗅ぎ続け、ドッグランの隅に移動して放尿した。
 裕介はショルダーバッグから水の入ったペットボトルを取りだし、キャスバルが放尿した後を流した。
「ワンちゃん、目が見えないんですか?」
 トイプードルの飼い主が小枝子に話しかけている。
「ええ、白内障が進行して。でも、鼻も耳もまだだいじょうぶだから、普段の生活にはなんの問題もないんですよ」
 放尿を終えたキャスバルは小枝子の元に戻り、甘えるように体を押しつけている。
 ドッグランに男がひとり、近づいてきた。どうやら、ダックスの飼い主のようだ。妻とダックスがドッグランで遊んでいる間、夫はひとり、道の駅の売店で買い物をしていたらしい。
「なあ、そこに停まってる車あるだろう。あれ、ボルボのV90っていうステーションワゴンなんだ。新型。うちの親父が昔乗ってたの、覚えてない? あれの古い型のやつなんだけどさ」
 男がドッグランの外から妻に声をかけた。妻は興味がなさそうにうなずいた。
「わたしの車なんですが、よかったら、見てみますか?」
 裕介は男に向かって口を開いた。旧型のV90は、一九九七年から二年間だけ、限定販売された車だ。全世界で五百台しか作られていない。それに乗っていたとなると、かなりのボルボ好きなのだろう。
「え? いいんですか?」
「旧型とは全然違う車ですが……」
 裕介はドッグランを出た。
「すみません。父は三年前に他界したんですが、あの車を見たら、なんだか懐かしくなってしまって。新型のV90が発売された時、欲しいなと思ったんですが、妻に反対されましてね。たまたま、新車に買い換えたばかりで。ミニバンですけど」
 男は嬉しそうに目を細めて言った。四十代の半ばといったところだろうか。筋肉質の体と陽に灼けた顔は、いかにもステーションワゴンが似合いそうだった。広々とした荷室にいろんなものを放り込んで海や山に出かけるのだ。
 裕介はV90のロックを解除した。
「ちょっと犬臭いかもしれませんが、好きなだけ見てください」
「車の中が犬臭いのはうちも同じですよ。申し遅れましたが、中田といいます」
 男──中田が右手を差し出してきた。裕介はそれを握った。
「浅野です。よろしく」
「じゃあ、失礼して……」
 男はまず、様々な角度からV90のエクステリアを吟味した。
「親父の古いV90は赤だったんですよ。白もいいですね」
 そう言ってインテリアを覗きこむ。
「外観もだけど、中身もずいぶん違いますね」
「今の車ですからね」
「これの前の車もボルボですか?」
 裕介はうなずいた。
「ずっと大型犬と暮らしているので、どうしても車内が広くないと困るんでね」
 車内が広い、アウトドアに出かけるのに便利ということであれば、いわゆる四駆と呼ばれるタイプの車でもよかった。ただ、あの手の車は自分には似合わないと思っている。三十代の頃からステーションワゴンを乗り継いできたし、この先もステーションワゴンに乗り続けるのだろう。
「前の車はどれぐらい乗りました?」
「十二万キロ」
「それだけ乗ったら、買い換えたくなりますよね」
 裕介は微笑んだ。前の車に問題があったわけではない。十万キロを超えてもヤレやがたつきはなく、軽快に走ってくれた。まだしばらくは買い換えるつもりはなかったのだ。
 だが、懇意にしているディーラーが、新型V90のカタログを持って訪ねてきた。そのカタログを眺め、ディーラーの話に耳を傾けているうちに気持ちがぐらついてきた。
 裕介の心にとまったのはV90の安全性能だ。かつては峠道を激しく攻めるような走り方もしたが、今ではそんなこともない。小枝子とキャスバルのために安全運転を心がけている。しかし、寄る年波には勝てないのだ。あの頃に比べれば反射神経に衰えが見えるのは自覚している。