鼓動 鈴木光司
鼓動 鈴木光司

 北島は為す術もなくキャビンのソファに転がり、ひとりで震えていた。
 七月にもかかわらず身体が芯から冷え、背骨を貫く寒気が顎の奥をがたがたと揺らして、肩にかけるタオルケットはまったく役に立たない。
 コンパニオンウェイがアクリル製のハッチで閉ざされているため、キャビン内は外部と隔絶された空間となり、風浪の音は多少減じられ、デッキを洗う海水が流入することもなかった。しかし、前後左右ともに揺れは物凄く、波に持ち上げられた船体が海面を叩くたびに、ドーンと、この世の終わりともとれる振動が床からソファへ、ソファから背中へと伝わり、生きた心地もしない。船底を叩く波の衝撃は、デッキよりもキャビンのほうが上だろう。
 キャビン内は暗く、コントロールパネルに点るパイロットランプの赤い光が、唯一の明かりである。細くのびる赤い筋に目の焦点を合わせるうち、吐き気がぶり返しそうになり、北島はあわてて目を逸らした。
 デッキに居たときと比べ、船酔いは幾分マシになっている。夕食で食べたものをすべて波間にぶちまけたせいで、喉の奥からせりあがってくるのは胃液ぐらいのものだ。
 たったひとりソファに横たわってから、二時間ばかりが過ぎようとしていた。実際の時間より短く感じられるのは、ときどき襲われる睡魔に意識が持ち去られるせいだろう。
 気力、体力ともに殺がれ、息も絶え絶えにソファに横たわる自分が、情けなくてならなかった。
 初めてヨットに乗る身とあれば、もとより戦力にはならないと承知の上である。
 にもかかわらず、二十一歳という若さを誇る我が身が早々に戦力外通告を受けて隔離され、五十代の太田黒と四十代の柴崎の共闘に参加できないのが、もどかしくてならないのだ。
 小学校から高校まで、野球、水泳、陸上を得意とし、水陸を問わずに躍動する身体が自慢だった。スポーツ万能の称号に慣れていただけに、この体たらくが許せない。
 ほんの二時間前まで北島はデッキに居て、恐ろしい光景を目の当たりにしてきた。生まれてこのかた死を覚悟したことなど一度もなかったが、「死」を意識する瞬間の波状攻撃は、一生ぶんを補って余りあるほどだった。精神のたががはずれかけて目の焦点が合わなくなったのを、太田黒は見逃さなかった。肉体はまだ耐えられた。先に音を上げたのは精神のほうである。
 その点を見極めた太田黒は、北島に、「キャビンに入って横になっていろ」と命令を下した。
 厚い雲に覆われ、星と月の光が閉ざされても、真の暗黒は訪れず、薄暗い中に凶暴さをむき出しにして襲いかかる海の顔つきを仄見ることができた。今、こうして船長命令に従ってソファに横になっていても、デッキで踏ん張って眺めた光景が、断片的に北島の脳裏に蘇る……。

 夜の八時を過ぎて星の瞬きが空から消えて以降、風が急激に強まり、暗い海が咆哮を上げ始めた。風が海面を走る音は、細く高く、震えるような悲鳴に似て、不気味なことこの上ない。
 風速が三十ノットを超えると、海面に舞う波飛沫に雨が混じり、気温がぐんぐん下がっていった。
 嵐の襲来を前にして、北島は太田黒から「外のデッキにいて風浪を体験するか」「キャビンに引きこもってソファで丸くなるか」の、二者択一を迫られた。北島が迷わずに前者を選ぶと、太田黒は、嬉しそうに顔を綻(ほころ)ばせて、「だったら、こいつを身につけろ」と、ヨット用オイルスキン(荒天用の雨合羽)を投げてよこした。
 防水ジャケットの上下を着終わるのを見て、「次はこいつだ」と、ハーネスと命綱を差し出し、自分の身で装着の仕方を示してくれた。
「一応、膨張式ライフジャケットを兼ねているが、浮力なんて何の役にも立たない。夜の、荒天での落水は、即、死を意味する。絶対に落ちるな。命綱の端を船の金具に結んで、デッキを洗う波に身体が流されないようにしろ」
 三人揃って、荒天への身繕いを整えると、太田黒は柴崎に指示を出した。
「エンジンの回転数を上げろ。最速で北上して、ホームポートを目指す」
「了解」
 それまで通奏低音のごとく鳴っていたボルボの鼓動がにわかに高まっていった。乗り組んでいる人間に緊急事態が迫っていることを感知し、いよいよ自分の出番かと、活躍の場を与えられた喜びに胸を高鳴らせるかのようだ。
 目指すは三四〇度の方向である。しかし、船首を一定に保つのは容易ではなかった。悪い波が来るとすぐに船首は風上に切り上ってブローチングする。太田黒が必死で舵を戻しても、いうことを聞いてくれず、翻弄されるがままブームが波間に突き刺さりそうになる。
 追い波を受けて船尾が持ち上がり、船首が風上に急旋回して、船体が三〇度から四〇度の角度に傾くなんてざらである。ヨット初体験の北島にとって、この角度は、ほぼ垂直にしか見えない。反対側の海に滑り落ちそうになる身体を両手で支えながら、脳裏には、先の展開が次々と浮かんだ。傾斜がさらに増して転覆し、命綱で船と繋がれたまま真っ暗な海の底に沈んでいく映像が引きも切らず押し寄せ、その妄想に溺れそうになる。大きな波がきてブローチングするたび、「もうだめだ」と観念する自分に、北島は慣れることがなかった。
 しかし、実際には、ヨットはすぐに安定を取り戻して起き上がり、南西の風を受けて目的地に向けて進んでいた。
 波高は五メートル、風速は軽く四十ノットを超え始めた。南氷洋なみの風と波である。
 波の影響を受けて船首の向きが急変すると、メインセイルがワイルドジャイブして、「バッシーン」と、悪魔の手で頬を張られるような音が、すぐ頭上に響く。メインセイルを下から支えるブームが、恐ろしい勢いで左右に振れるのだ。
「なるべく身を屈めろ。ブームに頭を叩かれたら、一巻の終わりだ」
 落水しても死、ブームに頭を打たれても死、男三人が身を寄せ合う狭い場所に、身近な死がひしめいている。
 亀のように首をすくめ、傾斜したデッキの高みへと身体を運んで、上半身を後方にひねったときだった。北島は、眼前に迫る光景に言葉を失った。
 傾斜したヨットのもっとも高い位置にへばりついているはずなのに、頭をはるかに越す海水の壁が、手を延ばせば届きそうなところに、黒く聳(そび)え立っていたのだ。悪魔が持つ大鎌の形に波の頂が巻き上り、白い飛沫を振りまきながら海水の壁が押し寄せてきた。北島の全身は、頭のてっぺんから足の先まで、海に飲み込まれ、凄まじい圧力で風下に運ばれたが、命綱がピンと張って落水だけは防がれた。ライフラインを越えた先の海面にあわやの地獄を見る思いだった。
 恐怖のあまり漏らした小便を、ジャケットの背から浸入した海水が洗い流して、ズボンの裾から吐き出していた。北島は、口に残る潮からさを味わいつつ、すべての感覚器官を閉ざしてしまいたい欲求に駆られた。見えたり、聞こえたりするから、いやが上にも恐怖は増す。もうこれ以上は見たくもなかった。
 太田黒はすぐ横にいて、耳元で怒鳴っているはずだった。しかし、その声ははるか遠くから響く、セイレインの誘惑のように聞こえた。
……もういい。よくやった。キャビンに降りて横になれ。
 無意識のうちに身体は命令に反応していた。北島は、夢遊病者のごとく、大波の合間を縫ってキャビンに降り、実も蓋もなくソファに身を投げ出したのだった……。

 あれから二時間。太田黒と、柴崎の格闘はいまだに続いている。
 激しかった風浪も峠を越えたのか、波と波の合間の束の間の静寂が、男たちの声を浮上させてくる。最初のうちその声は、太田黒と柴崎がたてる悲鳴のように聞こえた。ところが、じっと耳を澄ましてみると、そうでないことがわかってくる。苦悶の表情と、笑顔がどことなく似ているのと同じだった。悲鳴をあげていたのではなく、男たちは、声を上げて笑っていたのだ。
 北島は、自分が笑われているのではないかと心配になり、起き上がってコンパニオンウェイのアクリル板に耳をつけ、デッキの会話を聞いた。
 ふたりは、これまでの航海で経験した愉快なエピソードを掘り起こしては、大笑いしていた。その真下で鼓動するエンジン音と笑い声が相性よく融和し、楕円形の小窓から見える集落の明かりが人家が近いことを教えてくれ、北島は何ともいえない安心感に満たされていった。
 まどろみつつ、さらに一時間ばかりが経過した頃、キャビンにいても明らかな海況の変化を感じられるようになった。
 静岡県掛川市出身の北島は、同県にある伊豆半島の地理がよくわかっている。順調に北上したことによって伊豆の山々に西風が遮られ、風浪が治まったのではないかと想像がついた。
 そのとき、スライドのハッチが外から開き、アクリルの板が抜き取られて、長方形の隙間から太田黒の顔がのぞいた。
「ぼうず、もうだいじょうぶだ。出てこい」