鼓動 鈴木光司
鼓動 鈴木光司

 エンジンの始動は、出港準備が整ったことを知らせる合図だった。
 最後に残った舫いロープを足で押さえていた仲間たちは、船体が振動し、冷却水が勢いよく排出されるのを見て、二本の舫いロープを船のデッキへと放って船首を押した。
 こうして、「ラッキー・レディ号」は、七時ちょうどに岸壁を離れていった。
 太田黒はスロットルレバーを前に倒して、ゆっくりとヨットを前進させながら、見送りの面々に深々と頭を下げる。
「お世話になりました。来年、小笠原まで行く途中、また寄ります」
 太田黒は、名残惜しそうに感謝の気持ちを伝え、来年の計画を告知しながら、赤灯台の左側を通過して沖へ沖へと船を進めた。岸壁に遮られてみんなの姿が見えなくなるまで手を振り続けた太田黒は、港の外の、遮るものなき大海原に出るや船首を北に向け、御蔵(みくら)島の西の沖合を目指してオートパイロットに三四五度の針路を打ち込んだ。
 晴天の上、十ノット程度の風を南西から受け、絶好のクルージング日和である。ジブセイル、メインセイルとも全開で、艇速は七ノットがキープできた。目的地の熱海まで、距離にして約百二十マイル(約220キロ)ある。このまま順調に進めば、明日の朝には帰港できるはずだった。
 島から離れるほどに北島の興奮は大きくなっていった。じっとしていられず、あちこち動き回っては奇声を上げ、ライフライン越しに上半身を乗り出したりする。
「おい、落ちるなよ」
 太田黒の制止も聞かず、北島は、船首船尾、サイドデッキと、ところ構わず這い回って、大海原に顔を巡らせ、波打つ海面を間近に見て、だれ憚ることなく感嘆の声を上げた。
 すぐ左手には、八丈富士の偉容が迫っていた。その後ろには三原山が控え、流麗なふたつの山に挟まれた平坦な地に、北島が四泊を過ごした集落がある。亜熱帯気候の島で過ごした五日間が、忘れられない思い出となりつつあるのは、ヨットで帰るという非日常のおかげである。
 感情の高ぶりを余すところなく表現する北島とは対照的に、柴崎は、西の水平線にしきりに目を向けては、快適過ぎるがゆえの不安を口にした。
「やばいなあ。行きも快適、帰りもこんなに楽だと、逆に、心配になっちまう」
 柴崎はそう言い残してキャビンに降り、パソコンを広げて気象データを取得した後、浮かない顔をしてデッキに戻ってきた。
「どうだ。台風の進路は相変わらずか」
 太田黒が訊くと、柴崎は首をわずかに傾げて現在の状況を説明した。
 マリアナ海溝付近で発生し、まっすぐ西に進んでフィリピンを横断し、ベトナムに上陸するとばかり思い込んでいた台風六号は進路を突如変え、台湾をかすめて北上しつつある。しかし、それにしても、台風の予想進路は、東シナ海から黄海に抜けるものであるらしく、伊豆七島近海への影響はなさそうである……。
 そう報告しつつ、柴崎の表情が晴れることはなかった。嫌な予感を胸に抱いているのは、北島の目にも明らかである。
 昼前になると、太田黒は舵を柴崎に任せてキャビンへと降り、ランチの準備を始めた。
 船長であると同時に、太田黒はこの船の司厨長をつとめていた。どんなに海が荒れていても、船酔いすることもなく、手早く食事を作る技量は天下一品で他の追随を許さないという。
 ただし、手の込んだメニューは作れないらしく、熱湯で温めたレトルトのカレーと御飯、アスパラガスのサラダと茹で卵、というのが昼の献立だった。驚いたのは、鍋で炊き上げた白米の旨さだった。ふっくらと暖かく、喉を通過して胃に落ちた瞬間からエネルギーに変わって、全身の細胞が喜びに満たされていく。
「船の揺れが、御飯をおいしく炊き上げてくれるんだ」
 そう謙遜する太田黒であったが、絶妙な水加減と火加減の為せる技であると、北島は見抜いていた。この御飯があればおかずは何でもよかった。梅干しやふりかけだけで、何杯でも御代わりができる。
 午後も遅くになった頃、雲の合間から御蔵島の影がうっすらと現れた。
 御蔵島周辺の海域はイルカが生息することで有名であり、春から夏にかけてのシーズンには、イルカウォッチングの観光船が出るほどだ。
 水族館以外の場所で、イルカを見たことのない北島は、島に向かって大声で叫んだ。
「イルカ出てこい!」
 すると、信じられないことに、ヨット後方の海面を破って、丸くかわいらしい身体が跳ねた。いつの間にか、ヨットはイルカの大群に囲まれていた。ほんの数メートル先を飛び跳ねるイルカたちは、ヨットを遊び相手と勘違いして、じゃれてくるかのようだ。
 陽が沈んで暗くなり始めると、イルカたちは姿を消し、代わって、星々が空を彩り始めた。北斗七星、カシオペア座、双子座、北極星……、北半球の星座がはっきりと見てとれ、北島の興奮が収まる暇もなかった。
 この穏やかさ、美しさは永遠に続くと感じられたが、海はそれほど甘くはなかった。台風が接近するのではないかと顔を曇らせる柴崎の予感が、にわかに現実味を帯びてきたようである。
 キャビンとデッキを何度も往復して気象データを取る柴崎は、予想された進路を大幅に逸れ、台風が対馬海峡に向かって進み始めたことを告げていた。日本海を北上しつつ、東寄りのコースを取れば、台風は、関東方面に接近する。
 太田黒と柴崎の会話から想像される事態の急を、北島はどこか他人事のように聞いていた。今、海は凪いで、荒れそうな気配は微塵もない。だから、このまま続くと思い込んでいるのだ。
 しかし、夜の八時を過ぎると、星の瞬きは空から消え、風がにわかに上り始めた。晴れて星や月が出ていれば夜の海は充分に明るく、航跡に沿って無数の夜光虫がゆらめいたりして美しいことこの上ない。しかし、厚い雲に覆われると、とたんに様相は一変し、頭上から闇がのしかかって息苦しくなる。
 満天の星が西の方から順に消えていく様は実に不気味だった。次から次に繰り出される厚い雲が夜空を覆って、海を暗黒へと導いていく。
 天候の急変を目の当たりにして、北島はもはや信じないわけにはいかなかった。
 間違いなく、嵐は徐々に近づいてくる。低気圧が南西の強い風を巻き込んで、風、うねりともに咆哮を上げ始めた。
「どうするんですか」
 北島は恐る恐る、太田黒に今後の方針を尋ねた。
「闘うしかない」
「台風と闘って、勝てるんですか」
「ばか。闘うべき相手は自然ではない。自然をコントロールしようたって、無理に決まっている。冒険者たるもの、そんなことは百も承知。闘うべき相手は自分自身なんだ。期せずして、望まない状況に放り込まれても、自己をコントロールする力を失ってはならない。パニックに陥れば、危険はさらに増す。自分を鍛えるいいチャンスだと思え。凪ぎしか知らねえと、やがて、海をなめるようになる。人生と同じだ」
 そう言って北島を鼓舞した後、太田黒は顔を柴崎のほうに向けて指示を出す。
「さ、荒天準備にかかろう。ジブセイルを巻き取って、ロープでぐるぐる巻きにしろ。メインセイルはツーポンでいくか、それともトライスルに変えるか」
「予想される風力は最大で五十ノットでしょう」
「この風向きだと、波浮(はぶ)港にはうねりが入り込んで避難は無理だ。下田港は向かい風になるし、元町漁港は避難港として、はなから使いものにはならない。追い風を受けて最速で進み、母港に逃げ込むのが最善の策だろう。ツーポンで様子を見よう」
 状況を的確に判断し、指示を出している太田黒ではあったが、海がこのあとどういう状況になるのか、その光景が想像できているだけに、味わっている恐怖は北島より大きかった。
 北島がまだしも呑気に構えていられるのは、波頭を崩して襲いかかる海の恐ろしさを知らないからに過ぎない。