鼓動 鈴木光司
鼓動 鈴木光司

 さあ、どうしたものかと、北島は思案した。このまま放っておけば、太田黒たちはいつまで眠り続けるかわかったものではない。かといって、起こせば起こしたで、「安眠妨害」と怒鳴られる恐れもある。迷いつつも、北島は、旅行バッグを抱えたまま船のデッキに飛び移った。
 七十キロの体重を受けて、船体は左右にぐらりと揺れ、その拍子に、鼾のハーモニーがわずかに乱れた。
 生まれて初めて立つヨットのデッキだった。
 北島は感嘆の溜め息を漏らしつつ、コックピットを見回し、デッキ中央にそそり立つラット(舵輪)に手を滑らせていった。本革で包まれた金属製のラットからは、しっかりとした手応えが伝わってくる。ラットを支えるペデスタル上部には、コンパスや風向計、オートパイロット、GPSなどの機器がコンパクトに並んでいた。
 航海機器から得られる情報を吟味し、舵を切ることによって、進みたい方向に船首を向けることができるのだ。ただし、海が時化れば、容易に言うことはきいてくれないだろうと、素人の北島でも想像がついた。
「おお、来たか。目覚まし小僧」
 突如響いた酒焼けの声に、北島は驚いて顔を巡らせたが、太田黒の姿はどこにもない。
 前方に目をやると、ハッチから首を出して手を振る太田黒の姿が見えた。
「目覚まし小僧って……」
「目覚まし時計の代わりってことだ。七時出港予定だったから、六時半にセットした」
 北島は、男たちを起こす役をちゃっかり割り振られていたようだ。
 太田黒は、鍛え抜かれた上半身をひょいと持ち上げてハッチから抜け出し、バウパルピットに仁王立ちして勢いよく放尿した。
 海面を叩く軽快な音に反応するかのように、キャビンやソファで寝ていた四人の男たちが起き出し、口々に「おはよう」と挨拶を交わしながら、てきぱきと出港準備を始めた。
 柴崎以外の三人は荷物を抱えて埠頭へ飛び移り、岸壁のビットに巻かれた舫いロープを取って船のデッキに放り投げた。船に残った柴崎は、サイドデッキを動き回ってブームカバーのチャックを開き、ハリヤードをピークに固定し、舫いロープを手際よく巻き取ってロッカーにしまった。
 あらかた出港準備が整う頃になると、民宿に泊まっていた仲間たち、居酒屋の大将、親しくなった島の住民たちが、三三五五、見送りのために集まり始めた。
 時計を見ると七時十分前。出港予定が七時というのもあながち嘘ではなさそうだ。
「ぼうず、とりあえずキャビンに降りて、荷物をしまえ」
 太田黒に促されコンパオンウェイからキャビンに降りようとして、北島は足を止め、昨夜から胸に抱き続けてきた疑問を口にした。
「ところで、素敵な船名ですね。名前の由来は何ですか」
 太田黒は取り合おうとせず、「そんな恥ずかしいことは教えられない」と階段下のキャビンを指差し、「いいから、さっさと降りろ」と急かす。
 ラッキー・レディの由来を聞けぬまま、北島は、階段を降りて彼女の胎内を見渡し、息をつめた。
 テーブルを囲んでコの字型にソファが配置され、左手にトイレ・シャワールーム、右手手前のキッチンにはシンクがふたつ並び、冷蔵庫と電子レンジがコンパクトに備え付けられている。船首にひとつ、船尾にふたつベッドルームを持つ、いわゆる3LDKの間取りだった。外観からイメージするより船内はずっと広く、空間のレイアウトに過不足がなかった。現在北島が住んでいる六畳一間のアパートより、はるかに快適そうだ。
……ここなら住める。
 ヨットと家がほとんど同義であることを、北島はこのとき初めて知った。

 船の心臓部といえるディーゼルエンジンが収納されているのは、キャビン後方の、コンパニオン・ラダーを跳ね上げた空間だった。
 床に両膝をついて背中を丸め、エンジンルームに首を突っ込んでVベルトの緩みやオイル漏れなどを点検する柴崎のうしろに立って、狭い薄暗闇を覗き込んだとき、北島は、ムッとする熱気の中にオイル臭を嗅ぎわけていた。すぐ眼の下に上下する柴崎のスキンヘッドには大粒の汗が浮かんで、首筋へと流れていた。暑さ、臭さもなんのそので、仕事に精を出す柴崎は、この船の熟練クルーであり、太田黒の片腕ともいえる存在のようだ。
 柴崎の肩が下がった拍子に、むき出しのエンジンに刻まれたロゴが見えた。
「VOLVO」
 車を所有したことのない北島は、これまでボルボと聞いて「角張った頑丈な車」というイメージぐらいしか持たなかった。ヨットの動力としてもエンジンが使われていたとは、ちょっとした驚きである。武骨な印象が優雅さを纏(まと)って、より深くロゴが記憶に刻まれていった。
 一通り点検を終えてコンパニオン・ラダーを閉じ、柴崎が手を挙げて合図を送ると、デッキに立つ太田黒がスターターボタンを押した。セルモーターの回転が、何のストレスもなく軽快なシリンダー音へと繋がって、エンジンが良好であることを教えてくれる。
 座ったまま、じっとエンジン音に耳を傾ける柴崎が、「当たりだな」と囁く声を、北島は聞き逃さなかった。
「当たりって?」
 訊かれて、振り返った柴崎は、その意味を説明してくれた。
「エンジンには当たりはずれがある。こいつは実に相性がいい。これまで、トラブったことがないんだ。どんな逆風の中でも、力強く、船を前に押し進めてくれる」
 柴崎はさらに、プロペラによる推進力のみならず、ダイナモを回して冷蔵庫、温水器、航海機器などに電力を供給するエンジンの大切さを力説した。
「まさに船の心臓部なんだよ」
「心臓」に譬えられたとたん、北島の耳の奥で、ボルボの力強さと対照的な、細く、か弱い鼓動が蘇ってきた。
 連想されたのは、姉の子宮で成長しつつある胎児の鼓動である。
 二年前に大学の同級生と結婚して川崎の社宅で暮らす姉は、現在妊娠八か月だった。先月、家に遊びに行ったおり、これまでに撮影された胎児のエコー写真を見せられた上に、心音まで聞かされてしまった。
 写真に映る子宮には「赤ちゃんの部屋」と呼ばれる黒く小さなスペースがあった。そこは、体の動きに応じてアメーバのように縦横に形を変えるという。胎児は小部屋に必死でへばりつき、広い世界に出る前の不安を象徴するかのように毎分百五十回ばかりの早さで、脈を打つ。姉は、その音をアイフォンのアプリを使って聞かせてくれたのだった。
 スピーカーから流れ出る、トクントクンという雑音混じりの鼓動を聞いて、北島は思わず声を漏らしていた。
「お、すげえ」
 甥っ子の心音をひとしきり聞かせ、母と子の絆の強さをたっぷりと実感させた後、姉は、北島に諭してきた。
「あんた、たまには実家に帰ったらどう? 母さん、ぼやいていたわよ。ちっとも顔を見せてくれないって」
 会えば必ず「疲れた」と愚痴り、その原因は家に持ち帰る内職のせいで、そうまでして働くのはすべてあなたのためと仄めかす母が鬱陶しくて、実家に近寄らないようにしていたのだ。仕送りをもらって大学に通えるのは母のおかげと、有り難みは十分過ぎるほど感じている。しかし、押しつけが過ぎると、感謝の気持ちが煩わしさへと変わって、足が遠のいてしまう。
 母を喜ばせる報告を持たないまま、実家に顔を出すわけにはいかなかった。
 北島は白けた気分で、甥っ子の心音から耳を遠ざけた。
「こうみえても、おれ、忙しいんだよ」
「ひとり息子の顔を見るだけで、母さん、安心するんだから。それは子どもも同じ。赤ん坊の頃、あんた、母さんの胸に抱かれると、すぐに眠ってしまったもの。母の鼓動を聞いて、安心したんだろうね」
 五歳年上の姉は、母に抱かれて眠る北島の姿をはっきり覚えていると言う。
 もちろん、北島は、母の鼓動から安心を得た時代の記憶など、きれいさっぱりなくしてしまった。
 胎児のか細い心音と、船底を揺らすほどに頼もしいエンジン音……、一方はかくも弱々しく、一方はかくも力強い。そのコントラストの妙が、北島に家族の歴史を思い出させる。